*九
西欧諸国民国家がそのそれぞれがもっている今日の輪郭を少しでもはみ出せば，それら諸国の周囲や背後にあたかも一つの背景としてヨ’ロッパが浮き出てくるのである。そしてそのヨーロッパには，それらの諸国がルネサンス以来活動し続けてきた統一的な風景が浮かび上ってくる。そしてこの統一的なヨーロッパ風景を構成しているのは西欧諸国民国家そのものであり，彼らはまだそれとは気づかないながらも，その戦闘的な複数性を捨て去り始めているのである。フランス，イギリス，スペイン，イタリア，ドイツは，互いに争ったり，同盟を結んで対立したり，同盟を解消したりあるいはまた復活したりしている。しかしそのすべては，平和も戦争も，同等な立場の共存なのであって，これはローマが平和においても戦争においてもセルティベロ人ともガリア人，ブリテン人，ゲルマン人ともなしえなかったことである。歴史は，戦争と一般的な意味での政治を前面におし出してきた。実はこの政治というのは，統一という実が結ぶまでに最も時間のかかる土壌である。ところが現実には，一部の土地で戦いながらも，他のおびただしい部分では敵と通商し，思想や芸術様式や信条を交換し合っていたのである。いうなれば戦場のどよめきは単なる垂れ幕であって，その背後では平和の織機がより力強く作動し，敵対関係にある諸国民の生を縦横に綴り合わせていたのである。新しい世代が到来するごとに，人々の魂はより等質化していった。より正確かつ慎重にいいたいならば次のようにいえばよいであろう。つまり，フランス人の魂，イギリス人の魂，スペイン人の魂は確かに大いに違っていたし，今日も違っているし，今後も違ったままであろう。しかし彼らは，まったく同一の心理的な結構というか構造をもっており，なかんずく共通の内容をもちつつあるということである。宗教，科学，法律，芸術，社会的価値，愛の価値などは共通のものとなりつつある。ところで，実はこれらこそ，人間が因って生きるところのものである。したがってこの場合の等質性の方が同一の型にはめられた魂の場合よりも大きいという結果になるのである。
今日もし我々が，我々の精神内容――意見，規範，願望，仮定――のバランスシートを作成したとすれば，その大部分がフランス人の場合には彼のフランスからもたらされたものでもなく，スペイン人の場合にも彼のスペインからもたらされたものでもなく，ともに共通の背景であるヨーロッパに負うものであることに気づくであろう。今日確かに，我々一人一人のうちには，フランス人，スペイン人等々というように他国人と相違する部分よりもヨ’ロッパ人としての部分の方が大きな場所を占めているのである。もし我々が「一国民」としてもてるもののみで生きねばならないと仮定して，平均的フランス人から，彼が他のヨーロッパ諸国民から受容して使っているものや受容した考え方，感じ方を取り去ったとしたら，憤然とするに違いない。その時，彼にとってはそうした状態で生きることができないことが分かるとともに，彼の内面的な所有物の五分の四はヨーロッパの共有財産であることに気づくであろう。
西欧という地球上のこの一角に生存している我々にとって，ヨーロッパという言葉がこの四百年来かかげてきた約束を果たす以外に，いかなる重要なことをなすことができようか。この約束の履行に反対するものは，旧式の「国家」に対する先入観，つまり，国家を過去のものとしてみる観方のみである。ヨーロッパ人もまたロトの妻の子供たちであり（『創世記−第十九章参照），うしろ向きに歴史をつくることに固執するか否かが今に分かるであろう。先に見たローマそして古代人一般の例が我々に教訓を与えているように，ある種の類型の人間は，一度頭にたたき込んでしまった国家の概念を容易には捨て去りえない。しかし幸いにも，ヨーロッパ人が知ってか知らずか，この世にもたらした国民国家という概念は，今まで説かれてきたような学問的・文献学的な概念ではないのである。
ここで私がこの拙論で行なってきた主張を要約してみよう。すなわち世界は今日，重大な道徳的額廃に陥っている。そしてこの頭廃はもろもろの兆候の中でも特にどはずれた大衆の反逆によって明瞭に示されており，その起源はヨーロッパの道徳的額廃にある。ヨーロッパの頭廃には数多くの原因があるが，その主要なものの一つが，かってヨーロッパ大陸が自己およびその他の世界のうえに行使していた権力が移動したことである。つまり，ヨーロッパは自分が支配しているかどうかに確信がもてず，その他の世界も自分が支配されているかどうかに確信がもてないでいる。すなわち，歴史的至上権が分散してしまっているのである。
もはや「頂点の時代」はない。なぜならばそのためには，十九世紀がそうであったように，一つの明確で，あらかじめ設置された疑う余地のない未来が前提となっていなければならないからである。十九世紀の人々は明日何が起こるかを知っていると信じていたのだ。ところが今日地平線はふたたび新しい未知の世界に向かって開かれているのである。なぜならば，誰が支配するのか，そして権力はいかなる形で地球上を覆うのかが分からないからである。誰が支配するかというのは，つまり，いかなる民族，あるいはいかなる諸民族の集団，したがって，いかなるイデオロギー，いかなる傾向，規範，生命衝動の体系が支配するかということである。
我々は近き将来に，もろもろの人間的なことがどういう重力の中心に向かって引きつけられることになるのか知らないし，したがって世界はすべて暫定的な生に身を投じているのである。今日社会的な面でも私的な面でも――最も個人的な面においてさえ――行なわれているすべてのことは，二，三の科学のそのまた二，三の部門を除いては，全部暫定的なことである。今日推賞され，誇示され，試みられ，賞賛されているいっさいのことを信じない人がいたら，その人は当をえているといえるだろう。それらすべては，あっという間に消え去ってしまうだろうからである。スポーツに対する熱狂から（私がいっているのは熱狂の方でスポーツ自体ではない）政治的暴力にいたるまで，「新芸術」から今流行の海岸でのばかげた日光浴にいたるまで，万事が万事そうである。そのどれをとってみてもみな根無し草なのである。なぜならば，それらすべては，悪い意味での発明品にすぎないし，生を軽薄な気まぐれと同等視することだからである。それらは生の本質的な根底から湧き出した創造物でもなく，真の熱望でも必然性でもない。要するに，そうしたものすべては，生の本質から見た場合虚偽なのである。￣方においては誠実さを滴養しながら，同時に虚偽であるという矛盾した生の様式の例がここにある。生というものは，我々がその生の行為を不可避的に自然的な行為と感じうる時に初めて真なのである。今日，自己の政治的行為を不可避的な行為と感じている政治家は一人もいないし，彼の身振りが極端であればあるほど彼の自覚は薄く，より軽薄で，運命に要求されている度合いが少ない。不可避的な場面から成り立っている生以外に，自己の根をもった生，つまり真正な生はない。それ以外のものは，すなわち我々が手に取ったり，捨てたり，あるいは他のものと取りかえたりしうるものは，虚構の生以外のなにものでもないのである。
今日の生は，一つの空白期，つまり，歴史世界の二つの機構――昨日までの機構と今後の機構――の間の空白状態が生み出した結果である。だからこそ，それは本質的に暫定的なのである。そして男たちはいかなる原理に奉仕すべきかを知らないし，女たちはいかなるタイプの男性が本当に好きなのかを知らない。
ヨーロッパ人は，自分が一つの大きな統一的事業に薄進しているのでなければ，生きる術を知らない。そしてそうした事業がない場合は卑俗化し，無気力となり，彼らは魂の抜けた存在となってしまうのである。ところが今日我々の目前に起こりつつあるのはまさにこの状態である。今まで我々が国民国家と呼んできたそれぞれの区画は，約一世紀ばかり前にその最大限度にまで増大してしまった。もはやこの区画を乗り越える以外になす術はないのである。それらの区画はヨーロッパ人の周囲あるいは背後に蓄積されてゆく過去以外のなにものでもなく，ヨーロッパ人を拘束しその重荷となっている。かつて例を見ない生の自由を所有している我々は，それぞれの国民国家内にあって窒息しそうになっている。それはいわば密室の空気だからである。かつては広々とした風通しのよい広大な空間であった一国民国家が今や州となり「奥の間」と化してしまったのである。私が想像しているヨーロッパ超国民国家においては，今日の複数性は存続するものであげ，消滅すべきものでもない。古代国家が諸民族の差異を抹殺するか，さもなくばその動力を無効にするか，あるいは最大限に尊重した場合でもミイラ化して保存したのに対して，よりいっそうダイナミックな概念である国民国家的概念は，西欧の生がつねにその特質としてきた複数性が効果的に存続することを要求するのである。
すべての人々が，新しい生の原理を樹立することの急務を感じている。しかし――このような危機の時代にはつねに見られることだが――ある人々は，すでに失効してしまった原理を，過度にしかも人為的に強化することによって現状を救おうと試みている。今日我々が目撃している「ナショナリズム」的爆発の意味するところはこれである。もう一度繰り返していうが，いつの時代にもこうであったのである。最後の炎は最も長く，最後の溜息は，最も深いものだ。消滅寸前にあって国境――軍事的国境と経済的国境――は，極端に過敏になっている。
しかし，これらナショナリズムはすべて袋小路なのだ。試みにナショナリズムを未来に向けて投影してみていただきたい。たちまちその限界が感得されるだろう。その道はどこにも通じていない。ナショナリズムとはつねに国民国家形成の原理に逆行する衝動である。ナショナリズムは排他的であるのに対して国民国家主義は包含的なのだ。しかしナショナリズムも基礎固めの時代には積極的な価値をもっており，一つの高度な規範たりうる。だがヨーロッパにおいては，すべては十分過ぎるほど固まっているので，ナショナリズムは単なるマニアであり，創意の義務と大事業への義務をまぬがれようとする口実にすぎないのである。ナショナリズムが用いている単純きわまる手段とそれが賞揚している人間のタイプを見れば，ナショナリズムが歴史的創造とはまったく逆のものであることが十分すぎるほど明らかとなろう。
ヨーロッパ大陸の諸民族の集団による一大国民国家を建設する決断のみが，ヨーロッパの脈動をふたたび強化しうるであろう。その時，ヨーロッパはふたたび自信をとり戻し，真正な態度で自己に大いなる要求を課し，自己に規律を課すにいたるであろう。
しかしながら事態は，一般に考えられているよりもはるかに危険である。このまま年月がたち，ヨーロッパ人が現在営んでいる低次の生に慣れてしまう危険，世界を支配しないことにも自己自身を支配しないことにも慣れてしまう危険があるからである。そうなった場合には，ヨーロッパ人の高度の美徳も能力もすべて雲散霧消してしまうだろう。
しかしヨーロッパの統合には，国民国家形成の過程においてつねにそうであったように，保守的な階級が反対している。こうした保守主義者の態度は，彼ら自身の破局を招きかねない。というのは，ヨーロッパが決定的に道徳的堕落に陥りその歴史的エネルギーのすべてを喪失してしまうにいたるという普遍的な危険の上に，さらにもう一つきわめて具体的で切迫した危険を加えることになるからである。共産主義がロシアで勝利を収めた時，多くの人々は西欧全体がこの赤い潮にのまれてしまうだろうと考えた。私はそうした考え方には与しなかったばかりでなく，むしろ逆に，歴史上のあらゆる努力と情熱を個人という切札にかけてきた人種であるヨーロッパ人にとっては，ロシア的共産主義は同化不可能なものであると書いたほどである。それ以来かなりの年月がたった今，当時赤化を怖れていた人々も平静にもどった。ところが，彼らは心の平静を失ってしかるべき時になって平静をとり戻したのである。実は今こそ共産主義も破竹の勢いをもってヨーロッパに流れ込みうるのである。
私は次のように考えている。すなわち，ロシア式共産主義の信条の内容は，今日も以前同様にヨーロッパ人には関心のないものであり，魅力もなければ望ましい未来を描き出すものでもない。私がこういうのは，すべての使徒同様にロシア共産主義の強情で人の意見に耳をかさぬ誠実味のない使徒たちが通常述べたてるようなくだらない理由からではない。西欧の市民は，自己の資産のみで生きその残りを子孫に残すだけというような人間の余命は，たとえ共産主義がこなくてもすでにいくばくもないことは十分に承知しているのである。したがって，このことがヨーロッパをロシア的信条から守っているものでもなければ，ましてや恐怖心をあおっているのでないことはもちろんである。二十年前にソレルが彼の暴力論の基礎とした窓意的な諸前提は，今日の我々にはかなりばかげたものに見える。ヨーロッパ市民は彼が信じたほど臆病者ではないのである。それどころか今日では労働者以上に暴力に訴える準備があるのである。ロシアでボルシェヴィズムが勝利を収めたのは，ロシアには市民階級が存在しなかったからであることを知らない人はないだろう。小市民的運動であるファシズムは，全労働階級以上に暴力的であることを明らかにしてきた。したがって，ヨーロッパ人が共産主義に身を託すのを妨げているのは，臆病だからなのではまったくなく，より簡明なそれ以前の理由からである。つまり，ヨーロッパ人は，共産主義的組織の中に人間としての幸福の増大を認めないのである。
しかし，それにもかかわらず――繰り返していうが――近いうちにヨーロッパはボルシェヴィズムに熱中するようになる可能性がありすぎるほどあるように私には思えるのである。しかも，それはボルシェヴィズムなるがゆえにではなく，ボルシェヴィズムであるにもかかわらず，である。
ソビエト政府がヘラクレス的な力をもって推進している「五カ年計画」がその目標を達成し，巨大なロシア経済が単に復興するばかりでなく，繁栄するにいたった時のことを想像していただきたい。ボルシェヴィズムの内容がいかなるものであろうとも，それが人間の手による巨大な事業の試みであることには変わりない。その試みにおいて，人々は決然として改革という運命をわがものとし，その信条がもたらす高度の規律のもとに緊張した生を生きているのである。人間の情熱にはなかなか屈しない宇宙的な問題がこのロシアの試みを大きく挫折させないかぎり，その大規模な事業としての輝かしさは，少しでも道を開いてやれば，ヨーロッパ大陸の地平線上に光彩を放つ新しい星座のごとく姿を見せることは明らかである。その間にヨーロッパが，もしも今のように規律の欠如によって神経を弛緩させ，なんら新しい生の計画ももたないという卑しい植物的な体制にとどまり続けるとするならば，どうしてあれほど巨大な事業のもつ感染力からまぬがれることができようか。ヨーロッパ人が自分の前に高く掲げるべき旗をもっていない時に，そうした新しい行為への呼びかけを聞いても燃え立つことはなかろうと期待するとすれば，それはヨーロッパ人というものを知らない証拠である。自己の生に一つの意義を与えてくれるものに奉仕し，自己の存在の空虚さから逃がれるためであれば，ヨーロッパ人が共産主義に対するおのれの反対をひっこめ，共産主義の内容そのものではなく，その道徳的身振りに魅了されてしまうようになることも十分にありうることなのである。
私はヨーロッパを大国民国家に建設するという事業のみが，「五ヵ年計画」の勝利に対抗しうる唯一の道であると考えている。
政治経済の専門家は，「五カ年計画」の成功の可能性はきわめて少ないと保証している。しかし，反共産主義陣営がすべてを共産主義側の物質的困窮に待つというのではあまりにも卑劣ではなかろうか。そのような状態では，たとえ共産主義が失敗しても，その失敗は，世界の敗北，すべての人間のそしてすべてのものの，つまり今日の人間の敗北を意味することになるだろう。共産主義は一つの常軌を逸した「モラル」――モラルらしきものなのである。このスラブ的モラルに対して，西欧的な新しいモラルを，新しい生の計画の高揚を対置する方がより公明でありより豊かな実りをもたらすことになるとは考えられないだろうか。