さて、「内容のあらまし」の冒頭に、「社会科学における人間の問題」などという表題を掲げ
まして、これからお話しようと思うことのだいたいの内容や方向を暗示しておいたつもりなの
ですか、問題のいとぐちになるのはこういうことです。自然現象を対象として科学的認識、つ
まり自然科学か成立するということに根本的な疑念をもつ人はあまりいないだろうと思うので
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すか、事が、いわば人間の営みにほかならぬ社会現象を対象として、自然科学のばあいと同じ
ように、語の厳密な意味における科学的認識、つまり社会科学というべきものがいったい成り
立つのか、どうか、ということになりますと、すぐご想像がつくように、問題ははるかに複雑
で、自然科学のばあいにはみられないような難問に遭遇しなければならなくなります。が、そ
れは、どういうことなのか。
この聴衆のなかには学識の高い方もおいでになるように見受けられますので恐縮なんですか、
ひじょうに卑近な事実から少しずつ説明をはじめていきたいと思います。何年か前に、岩波新
書の一冊に『昭和史』という本が出まして、そのあと、主として文学者の方々からだったと思
いますか、「あの歴史叙述のなかには人間かない」という批判か出たことを憶えていらっしゃ
るだろうと思います。このことは今日お話する中心問題ではないので、その批判か当っている
か、いないかということにはふれないでおきますか、じつはこの論争の余波として私なども少
少とばっちりを受けました。私の専門は経済史ですけれども、私の経済史叙述にも人間かない
という議論がでてきたわけなんです。正直なことを中しますと、昭和二十二、三年あたりには、
私の経済史研究には人間かありすぎるという批判を受けましたか、今度は逆に人間かないとい
う批判を受けたわけです。このばあい、私の経済史の見方はそれほど変ってきたわけではあり
ませんからヽ論者の用いる人間という語の意味内容がヽ前と後とでだいぶ違っていることか容
易に推測されます。そして、これはなかなか重要な意味をもっているように思うのです。
ところで、私はそうした批判に答えるつもりはなかったのですか、偶然、東大の学生新聞か
らなにか書けという依頼があり、非常に短い文章を載せたことかあります。それはこういうこ
とでした。ち。うど、そのころは暑中休暇中で、私は沓掛、いまの中軽井沢、あの辺にいって
仕事をしておりまして、しかも前の日の夕方碓氷峠に行って、あの美しい夕映えのなかの浅間
山やそれ拡連なる山並みを見てきたところだったのです。私のような足の悪い人間がたまに山
上の景色を見ると、足の達者な方々よりもだいぷ感動か大きいようです。その感動か残ってい
たものですから、こういうことを書きました。碓氷峠からみた浅間山の雄大な姿、そのまわり
に群がり連なっている山並み、夕映えにかがやくそうした山々はすばらしい景色です。ところ
か、この浅間山やそれに連なる山々を地図のうえで見ますと、そこには、あの夕映えの美しさ
はおろか、浅間山や連なる山並みの雄大さはぜんぜん現われておりません。それは単なる平面
のうえに、ただ白と黒の線がさまざまに入りまじって描かれているだけなんです。それによっ
て、あの感動を新たにすることなど、とうていできないことです。ところで、それだからこの
地図はまちかっているだとか、無意味なものだとか、そういうことか言えますか、といったこ
とを私は書いたのです。もしも、われわれにあの感動をさそうような浅間山やそれに連なる山
並みの雄大さ、美しさを表現しようと思ったら、カラースライドはおろか、おそらくすぐれた
画家の手をまつよりほかないでし。う。そんな仕事を地図に要求するのは、はじめから間違っ
ています。しかし、また、逆に、どんなにすばらしい芸術作品であっても、画家の描いた絵で
は浅間山に登るのに役立ちません。そのためには、どうしても浅間山の地図がいるわけです。
そして、地図を作るには、どうしても、現実の浅間山からあの雄大さやあの夕映えの美しさな
どを全部捨象して、すべてを単なる平面上に描かれた白と黒の線に還元してしまわなければな
らないのです。ともかく、このような特定の観点から作られた地図に浅間山の雄大さや山並み
の美しさを要求するのは、そもそも無理でし。う。経済史のばあいも、それと同じことです。
少なくともわれわれのやっている経済史という学問は社会科学の一部門であり、人間の営みを
対象とするといっても、ある特定の観点からの認識にすぎません。そのことを看過して、経済
史の叙述のなかに、古今のすぐれた作家か描き出しているような人間性の機微というものがみ
いだされないから、だから学問的な価値かないなどというのは、価値判断の基準がはじめから
間違っていると思うのです。経済史が芸術的作品として評価されるのなら、私の著書など落第
であることは、とっくにわかっておりますし、そういう意味で人間を描こうなどということは、
私ははじめから断念していた。むしろ、断念しなければ、独自な認識目的をもつ社会科学なる
ものは成り立ちえないと考えていたの。です。
ところで、それにも拘わらず、社会科学の認識対象は自然現象ではなくて、社会現匁であり
その社会現象はもちろん、生きた具体的な人間の営みであって、自然とは根本的にちがったも
のを含んでおります。そこで、ただ、自然科学は自然現象を対象とするところの科学的認識で
あり、これに対して社会科学は社会現象を対象とする科学的認識だ、そういう簡単なことでは
すまない。私はいま社会科学的認識を地図の作成に類比してみたのですか、しかし、じつは、
そこにはそう簡単でない問題か含まれているわけなのであります。
いったい人間の営みを、人間の行動やその成果を、認識対象として、自然科学と並べて、こ
れもまた十分に科学であるといえるような科学的認識は、どうして成立しうるのか。じつは、
これはなかなかの問題なのです。というのは、科学的認識である以上、それは因果性の範疇の
使用ということと、どうしても関連をもたざるを得ない。ところか、そこですぐ問題か起って
くるわけです。人間というものは意志の自由をもつために、その行為は非合理的なものを含み、
したがってその営みには本来的に計測不可能性が附着している。こうして、人間の営みである
社会現象は、非合理的なものを含んでいるために、目的−手段の目的論的な関連は辿れるかも
しれないか、因果性の範疇を適用して原因−結果の関連をたどることは、自然現象のばあいと
ちがって、なかなかできにくい。そこで、科学的認識としては、社会科学は自然科学に比べて、
程度の低いものとならざるをえない。こうした考えか、われわれの常識の中に深く根を下ろし
ているように思われます。それどころか、そうした非合理性と計測不可能性を合むからこそ、
人間は自然と違っているのだ、いや、自然よりもより偉大なのだとさえ考えられているわけで
す。
ところで、こういうふうに考えるとしますと、社会現象を対象としたばあい、一方では歴史
学かヽ他方では倫理学とかヽ法学とかヽそういった規範の学というかべ悪い意味ではないドグ
マティーク（教義学）か、せいぜいのところ政策学といったような学問か成り立つだけで、因果
性の範疇を用いて行なわれるような厳密な意味での科学的認識は、かりに成立するにしても、
きわめて程度の低い、常識に近いものになってしまうほかはないわけです。ところかまた、た
とえば経済学にみられるように、社会現象を対象として、因果性の範疇を使用する厳密な意味
での科学か、現実に立派に成り立っているということも、もうすでに、紛れもない事実であり
ます。そうだとしますと、人間の営みにほかならぬ社会現象を対象としたばあい、自然科学と
同じような意味において科学的という言葉を使ってさしつかえないような認識は、いったい、
どのようにして成立することになるのだろうか。こういうことか、どうしても、まずもってわ
れわれの問題となってくるわけです。そして、これは社会科学のどの部門であるかを問わず、
その底にいつも秘められている問題だといってよいでしょう。こうした問題について、これか
ら、皆さんと考えていきたいと思うのでありますか、そのさい、この問題を正面から取り上げ
た二つの典型的な事例として、カールーマルクスの経済学（というより、ほんとうは経済学批判とい
ったほうかいいのだろうと思いますか、ふつう、マルクス経済学といいますから経済学と申しておきます。）、
それからマックスーヴェーバーの社会学（これも現在、ふつう社会学とよばれているものと、ち″つ
と内容か違うかも知れませんか、ヴェーバー言うところの社会学）、この二つのばあいをとってみた
いと思います。もちろん、こういう問題に正面から取り組んでいるのは、なにもこの二人のば
あいだけに限りません。最近においてはもっと違った立場からのものもありますか、私はやは
りこの二つのなかにある原型か見られるように思いますので、とりあえず、この二人のばあい
を取り上げて考えていきたいと思うのです。
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