０１
独裁権力が道徳的であることはない
ここでわれわれは，一つの信念を吟味しなければならない。全体主義の出現を不可避と見なしている多くの人々にとっては，不安をなだめてくれている信念であり，また，全体主義の真の性質をはっきりと知ったら，全力でそれに対抗するだろう別の多くの人々にとっては，抵抗の力を深刻に弱めさせられてしまっている信念である。その信念とは，現在の全体主義体制が持っている最も嫌悪すべき性格は，全体主義に本質的なものではなく，たまたま，ならず者やテロリストといったグループによって樹立されたという，歴史的偶然に由来しているのだ，というものである。なるほど，次のようなことがよく言われている。ーードイツにおける全体主義政権の創設が，シュトライヒャー，キリンガー，ライ，ハイネ，ヒムラー，ハイドリッヒをはじめとする邪悪な人間ばかりを権力の座につけたのは，ドイツ人の性格の悪疎さを証明しているのかもしれない。もしそうなら，こういった人間たちが高い地位に登りつめたのは，全体主義体制の必然的な帰結ではないのかもしれない。だとすると，もし重要な目的を達成するのに必要だとして，同じ種類の体制が生み出されることになっても，それが分別ある人々によって，社会全体のために運営されていくことも，ありうることなのではないだろうか。
０２
われわれは，すべての善良な人は民主主義的であり，必ず政治に参加しようとするはずだ，と思い違いしてはならない。一般に人々が，政治のことはもっと有能だと思われる誰かに任せたほうがいいと考えていることは疑いない。善良な人による独裁を是認することは，賢明ではないかもしれないが，悪いことでもなければ恥ずべきことでもない。しかしここから，全体主義は善をなすにも悪をなすにも強力な体制で，この体制がどのような目的で利用されるかは，ひとえに独裁者が善か悪かによっているのだ，というような議論が出てくる（現にそれはよく耳にするものだ）。そして恐れるべきは全体主義の体制ではなく，それが邪悪な人間の手で運営される危険性のほつだと考えている人々は，その危険に先回りして，善良な人による全体主義体制が，適当な時期に樹立されるのを期待しようとするかもしれない。
０３
英国で「ファシズム」体制が樹立されるようなことがあったら，イタリアやドイツのそれとはまったく異なった形態になるだろう，ということはもちろんそうだろう。このような体制への移行が暴力なしに行なわれるとすれば，確かに善良なタイプのリーダーが生まれることも期待できるかもしれない。また，かりに私がなんらかのファシズム体制のもとで生活しなければならないとするなら，私は疑いなく，他のどの国の人間よりも，英国人によって運営されるファシズム体制で暮らしたいと思う。しかしながら，だからといって，ファシズム体制は英国で樹立されるのなら，その本来的な形態とはまったく違うものになるだろうとか，はるかに耐えやすいものとなるだろう，ということにはならない。様々な面から考えて，現在存在する全体主義体制の最悪の特徴と思われるものは，偶然的な副産物ではなく，全体主義が遅かれ早かれ生み出すに違いない現象であることは，ほとんど疑いのないところである。どんな民主的な統治者であっても，国民の経済活動を計画化し始めるやいなや，独裁的な権力をふるうか，それとも計画を放棄するかという二者択一に直面してしまうのと同様に，どんな全体主義的独裁者も，その体制を運営し始めるやいなや，通常の道徳を無視するか，それとも運営に失敗するかの二者択一をせざるをえなくなるだろう。まさにそのゆえにこそ，全体主義へと向かっている社会においては，不道徳で自己抑制力のない人間が権力の座へ登るようになるのである。このことが理解できない人は，全体主義と自由主義体制とがいかに決定的に違うものであるか，集産主義と西欧個人主義文明とで社会全体の道徳的雰囲気がいかに究極のところで違うものであるか，まだ完全に把握できていないのである。
０４
もちろん，「集産主義の道徳的基礎」という問題は，過去に何度も討論されてきたが，われわれが問題にしなければならないのは，道徳的基礎なのではなく，それがもたらす道徳的結果である。紫産主義の道徳的側面をめぐって一般に行なわれてきた議論は，集産主義とは既存の道徳的な信念によって必要とされているのかどうか，あるいは，集産主義が望ましい結果を生み出すためにはどんな道徳的信念が必要とされるのか，という問題に関してのものであった。だが，本当の問題は，集産主義による社会の組織化によって，どんな道徳的見解が生み出されるか，あるいは，そこではどんな道徳的見解が支配的になりやすいか，ということなのである。道徳と制度とが相互に影響を与えあうことによって，集産主義が人々の間に生み出す倫理的効果は，人々が集産主義を求めるようになった道徳的理想とはまったく異なってしまう可能性がある。人々は，集産主義体制を求める熱情は高い道徳的動機から左まれためであるから，その親実力体制は最高の美徳多産お中す上嬢になるはすだと思いがちであゑ だが，実際のところある体制が人々の間に生み出す道徳的熊鞍拝はその体制がめざそうとしている目標の達成を必ずしも促進するという保証はない。集産主義あるいは全体主義社会で支配的になる道徳的見解は，どのようにして個人は成功を獲得できるのか，そして全体主義の機械的システムが何を個人に要求してくるか，ということによって形成されるのであり，それがどんなものになるかはすでに見た通りである。
０５
強力な政党は人間の下等な部分によって組織される
ここでしばらく，少し前の章で論じた，民主主義的諸制度の抑圧と全体主義体制の創設に先立ってどのような状況が存在したか，ということに再び立ち返ってみる必要がある。その段階で支配的であった政治的要素は，迅速で決意ある行動を政府に求める広汎な要求であった。つまり，ある行動を起こすために様々な行動が要求されるという，遅々として厄介な過程を要する民主主義的手続きへの不満が，支配的であったのである。こうして，人々の多くを魅了するようになったのは，「事を処理する」のに十分強力で断固とした指導者ないし政党が必要だという考えであった。ここで言う「強力」とは，単なる数字上の多数派を意味しない。そもそも国会の多数派がまったく役立たないことこそ，人々が不満に思っていたのである。人々が求めていたのは，強固な支持を結集して，意図したことを何でも実現できてしまうような信頼のおける人物の出現であった。まさにこういう状況によって，新しいタイプの，軍隊的な組織を持った政党が登場してきたのであった。
０６
すでにその時点で，中央ヨーロッパの国々の社会主義政党は，党員は私生活を可能なかぎり党へ捧げるという，半ば軍隊的な性格を持った政治組織として，自らを大衆にアピールしていた。あるグループが圧倒的な権力を獲得するのに必要なことは，同じ一つの原則を少しでも深く追求することであり，また，その時々の選挙における多数の支持などでなく，少数でも非常に徹底して組織された母体集団の，絶対的で無条件の支持にその力を求めることであった。全国民に全体主義体制を押しつけることができるためには，指導者がまず最初に，自分のまわりに全体主義的原理に進んで従う意志のある人々を結集できなければならない。そしてこの人々が，力ずくでその原理を，他の人たちに押しつけていくのである。
０７
当時の社会主義諸政党は，行使しようとすればどんなことでも達成できるほど強力な力を持っていたが，そうすべきでないと考えていた。ところが，彼らが自らに引き受けた任務といえば，彼ら自身はっきりと気づいていたわけではないが，冷酷で，社会のモラルという障壁を平気で無視できるような人々のみが実行できる種類のものであった。
０８
社会主義は，大半の社会主義者が決して容認しないような方法によってしか実現されえないということは，言うまでもなく，過去の多くの社会改革家が学んできた教訓である。古いタイプの社会主義政党は，彼ら自身が持っていた民主主義的な理念によって抑制されていたし，自らの任務を実現するのに必要な冷酷さを持ち合わせてもいなかった。ドイツとイタリアにおいてファシズムが成功する以前，社会主義諸政党は政府という責任ある立場に立つことを拒否していたことは，事の本質をはからずも表わしている。それらの諸政党は，ある政策への道を指し示してはいても，それらの政策を全身全霊をこめて実現しようという意志はなかったのである。彼らは依然として，社会全体を組織するなんらかの計画に，国民の多数が合意するという奇跡を待ち望んでいた。ところが新しいタイプの社会主義政党は，計画社会で問題となるのは多数の合意などではなく，すべての事柄を一つに方向づけられるほど構成員の間で十分な合意が存在している最大のグループはどれであるか，あるいは，そういったグループのどれもが主張を実行できるほど大きくない場合には，どうやれば，また誰が，それを作り出せるか，ということなのだと十分に知り尽くしていた。
０９
ところがこういった，構成員がまったく同じような思想を持つ強力で人数の多いグループは，社会の最善の人々からではなく，最悪の人々から作られる傾向がある。これは主として，次に述べる三つの理由によっている。いずれもグループのメンバー獲得原理に関するものであるが，自由主義者の基準に従えば，それらはほとんど完全に否定的な意味しか持ちえない。
１０
第一に，一般に教育や知性の水準が高くなっていけばいくほど，人々の考え方や趣味噂好は多様になっていき，ある価値体系に対して人々が意見を一致させる可能性が少なくなっていくのはおそらく間違いない。このことから推論すれば，もし人々の間に高度の一様性や相似性を見出したいのであれば，より道徳的・知性的でないレベル，より原始的で「共通」の本能がむき出しになる部分へと，視点を降ろしていかなくてはならないことになる。断わっておくが，このことは人々の大半が低い道徳的基準しか持っていないことを意味するのではない。同じような価値観を持った人々によって構成される最大のグループは，低い道徳的・知性的水準を持った人々の集まりである，ということを意味しているにすぎないのである。言ってみれば，最大の人々を一致させられるのは一番低い分母である，ということである。つまり，ある人生観・価値観を他者に押しつけることができるほどに強力な，多人数のグループが必要とされるのであれば，それは決して，高度にバラエティに富んで洗練された趣味増好を持った人々から構成されるのではなく，悪い意味での「大衆」に属する人々，最も非独創的・非独立的で，自分たちの理想を数の力でごり押しすることも辞さないような人々によって構成されるだろう，ということである。
１１
とはいえ，独裁をめざしている者が，素朴で原始的な本能においてたまたま一致した人々を支持母体とするだけなら，それらの人々の数は政策を実現していくのに十分なほど多くはないだろう。独裁をめざす者は，そういった人々の数をもっと増やすために，より多くの人を一つの単純な教義へと改心させていかなければならないだろう。
１２
ここにおいて，メンバー獲得原理の第二番目が登場してくることになる。独裁をめざす者は，従順な，だまされやすい人々を根こそぎ支持者に抱き込むことができるだろう。これらの人々は，自分自身の確固とした信念を持っておらず，その耳に大声で何度も何度も吹き込まれれば，どんなお仕着せの価値観であろうが受け入れてしまう。こういった，物事をぼんやりと断片的にしか考えず，他人の考えに動かされやすい人々，あるいは，情熱や感情にたやすく駆られてしまう人々が，全体主義政党の下部党員の数を増やしていくのである。
１３
第三の，おそらく最も重要な要素は，このようにして結集力の強い同質な支持母体を作るために，熟練した煽動家が採用する計略的な手段に関してのものである。人々が，積極的な意義を持つ事柄よりも，敵を憎むとか自分たちより裕福な暮らしをしている人々を羨むとかいった，否定的な政治綱領のほうにはるかに容易に合意しやすいことは，人間性に関する一つの法則とさえ言えるように思われる。「われわれ」と「彼ら」をはっきりと対照させたり，グループ以外の人々に対して共に闘っていくといったことは，一つのグループを共同の活動へと強固に団結させていくどんな政治的教義にとっても，不可欠な要素であると言えよう。そのためこのようなやり方は，政策への支持のみならず，巨大な大衆の無条件な忠誠をも獲得しようとする人々によって，常に使われている。さらにそれは，彼らの観点からすれば，具体的な政治綱領を提示するより，もっと自由に活動できる余地があるため，はるかに有利なやり方なのである。敵というものは，「ユダヤ人」や「富農」のように内部のものであれ，外部に存在するものであれ，全体主義指導者の武器庫における必需品なのだと言えよう。
１４
ドイツにおいて，「財閥」が敵として選ばれるようになるまでは，ユダヤ人が敵とされていたという事態は，ロシアにおいて「富農」が敵とされたのと同様，それらの運動すべてが，資本を持つ者に対する恨みに立脚するものであったことの結果である。ドイツやオーストリアでは，ユダヤ人は資本主義の代表と見なされていた。それは，国民の多くの階級が伝統的に商業的な活動を嫌っていたため，より高く評価される職業から実際には排除されていたユダヤ人が，それらにたやすく参人することができたからであった。こういった経緯は，在住異邦人が社会的に低い仕事に就くことしか許されず，さらにそういう職に従事していることでますます人々から嫌われるようになるという，昔から繰り返されてきた物語の一つである。ドイツにおいて反ユダヤ主義や反資本主義が，この商業活動への軽蔑という同じ根源から生まれてきたという事実は，現在までそこで何が起こってきたかを理解する上できわめて重要な点であり，残念ながら外国の観察者にはほとんど認識されていないことなのである。
１５
集産主義は排他的な権力讃美へと向かう
集産主義の政策がどこにおいても国粋主義の傾向を持つのは，単に人々の無条件の支持を獲得するためなのだと考えてしまうと，もう一つの，同様に重要な要素を見逃してしまうことになるだろう。集産主義の政治綱領が，ある限られたグループの利益を計らないようなものとして現実に想定できるかどうか，集産主義が国粋主義や民族主義や階級主義といったある種の特殊主義以外の形で存在できるかどうか，考えてみるのがよいかもしれない。そもそもある集団が目的や利害を共有しているということは，他の単なる人間一般と比べて思想や外見により大きな相似性があることが前提になる。ある集団に入っていると感じられるためには，個人的に知らないメンバーでも，身近にいるメンバーと同じような人間で，同じようなことを同じように考えたり語ったりしているのだと感じる必要がある。そもそも全世界を包括した集産主義などという理念は，考えられまいーー一握りのエリート支配集団が自分たちのために全世界を支配するなら別だがーー。そういう形の集産主義は，技術的に無理だというだけでなく，どんな社会主義者も逃げ出すような道徳的難問をひき起こすだろう。もし英国のプロレタリアートが，英国の資本資源から現在引き出される利益は搾取の結果であるから，平等な所得や管理権として分配される権利があるとするなら，同じ理屈で，大英連邦の一員である全インド人も同様に，その所得のみならず管理権も分配を受ける権利があることになる。だが，全世界の資源を全人類に平等に分配することを，真剣に考えたことのある社会主義者がはたしているだろうか。あらゆる社会主義者は，資本は人間に所属するのでなく，国家に所属していると見なしている。しかも，一国の中の問題としてさえ，貧困な地域を助けるために豊かな地域にある「彼らの」資本設備を取り上げるべきだと，あえて主張する勇気を持っている社会主義者はほとんどいない。また，自国民には分配を保証すると主張しても，在住異邦人にもそれを保証しようと考えた社会主義者がいるだろうか。いずれにせよ，集産主義者の考え方を首尾一貫して主張するかぎり，「持たざる」国々が世界の全体を改めて分割せよと主張することは，完全に正当なことだと言わなければならないーーただしそれが完全に実行されれば，最も強くそう主張する国々でさえ，最も豊かな国が失うのと同じ程度の損失をこうむることになるだろうが−−。このようなことがあるから，集産主義者たちは，自分たちの主張の根拠を平等主義の原則には置かないように注意し，自分たちは人々を組織する能力において優れているのだとアピールするようにしているのである。
１６
集産主義哲学がその成立において抱えている矛盾の一つは，個人主義が育んだ人間主義的道徳の上に立脚しつつも，その哲学は限定された集団の中でしか現実化されない，という点である。社会主義は理論の次元に留まっているかぎりは国際主義だが，実践に移されるやいなや，ロシアでもドイツでもそうだったように，激しい国粋主義になってしまうという事実を直視するならば，西洋の人々が想像しているような「自由主義的社会主義」は，純然と理論的なものでしかなく，社会主義の実現は全体主義以外の何ものをも導かないということが明らかになるだろう。集産主義の中には，自由主義のあの広い人道主義は存在する余地がなく，全体主義の狭い特殊主義しか入る余地がないのである。
１７
もし「共同体」や国家が個人よりも優位にあるべきならば，またもしそれらが個人の目的に優る独自の目的を持っているのならば，それらの目的のために働く人間しか，その共同体の構成員だと見なされないだろう。こういった考え方からすれば当然，ある人が尊敬されるのはグループの一員として，つまり共同体の定めた目的のために働く時のみであり，また個人の尊厳は，単に人間であることではなく，ひとえに集団の構成員であることにかかっている，ということになる。そもそも，人間性の概念とか，それに基づいた様々な形の国際主義というのは，すべて人間に対する個人主義的見解からだけ生まれてくるのであり，集産主義の思想体系にこのような概念を許す余地はない。
１８
さて，集産主義共同体は，諸個人の目的が一つであるか，一つにしうるような範囲でのみ結成されるということが，基本的事実として明らかになったが，それとは別に，集産主義が特殊主義となり，排他的となっていく傾向に拍車をかげろいくつかの要素がある。そのうち最も重要なものは，ある集団と同化したいという個人の欲求はしばしば劣等感から生まれるものであり，かかるがゆえにその人間は劣等感の補償を求めて，グループの構成員となることで他者に対する優越感を味わおうと求めるようになる，ということである。時には，そういった補償を求める激しい本能を，グループの内部では抑制せねばならぬにしても，外部に向かっての集団行動では自由に爆発させることができるということが，個人をグループに没入させるより強い魅力となっているのかもしれない。そういう意味では，『道徳的人間と不道徳的社会』というＲ・ニーブールの著書の題名は，深遠な真理をついている−ーただしこの命題から彼が引き出している結論はとても賛成しうるものではないがーー。実際，彼が別のところで書いているように，「自分たちの悪徳をできるだけ大きな集団の責任へと転嫁してしまうことによって，自分たちが倫理的になっていると想像する，現代人たちのより強くなりつつある傾向」が確かに存在する。人はグル’ブの旗を振りかざして行動する時，グループ内ではその一員たるよう彼を抑制していた道徳的な束縛を，一挙に振り捨ててしまうのであるう。
１９
ともあれ，大半の計画主義者が，国際主義に対してはっきりと敵対的な態度を取る理由は，彼らにとって自国の外に存在する世界を考慮することは，自らが実行可能だと意気込んでいた計画化への重大な障害となってしまうという事実を考えれば，より容易に理解されるだろう。したがって，計画化に関する論文を最も広汎に集めた論集の一つで，編者が「大半の『計画主義者』は，戦闘的な国粋主義者である」とにがい調子で認めなければならなかったのは，決して偶然なことではない。
２０
社会主義の計画主義者たちの国粋主義的・帝国主義的性向は，一般に認められているよりはるかに普遍的ではあるが，例えばウェッブ夫妻やその他何人かの初期フェビアン主義者の場合ほど，どう見ても明らかだと言えるケースはない。彼らの計画化への熱情は，強大な政治単位への崇拝と小国への軽蔑が，特徴的な形で結びついていた。歴史家エリー・アレヴィは，四十年以上前初めて出会った頃のウェッブ夫妻のことを，こう書き留めている。
《彼らの社会主義は心底から反目由主義的であった。彼らは保守党のトーリー党を憎んではおらず，むしろ異常なくらいに寛大であったが，「グラッドストーン流の自由主義」に対しては，どんな慈悲心も持っていなかった。それはちょうどボーア戦争の頃で，進歩派の自由主義者ならびに労働党を結成し始めていた人々は，「英国帝国主義」に対して戦ったボーア人の側に，自由と人間性との名において高潔に味方していた。ところが，ウェッブ夫妻とその友人バーナード・ショウは，まったく対極の立場に立った。彼らはあえてあからさまに帝国主義者として振るまった。小国の独立は，自由主義的な個人主義者には，少なからぬ意義を持つものであった。だが，彼らのような集産主義者には，それは何ものをも意味しなかった。シドニー・ウェッブが私に，未来は世界を管理するいくつかの大国のものであり，そこでは官僚が支配し警察が秩序を維持するのだ，と説明した声は，いまだに私の耳の奥に響き続けている。》
２１
また，別の書でアレヴィはバーナード・ショウがその頃議論していたことを引用している。いわく，「世界は必要上，いくつかの強大国のものとなる。そして小国は強大国に吸収されるか，さもなくば存在を抹殺されざるをえない」と。
２２
長い引用になってしまったが，これらの文章は，後に国家社会主義を生み出すこととなったドイツの思想家を描いたものだといって差し出されたとしても，誰も驚かないだろう。ここにきわめて典型的に見られる権力の賛美は，社会主義から国粋主義までを導いているものであり，すべての集産主義者の倫理的見解に大きな影響を与えているものだからだ。ちなみに，小国の権利という問題に関するかぎり，マルクスやエンゲルスも，大半の他の首尾一貫した集産主義者に比べてほとんど優れていたとは言えない。彼らがチェコスロヴァキアやポーランドに関して時折表明した見解は，現在の国家社会主義者の見解とほとんど変わりがないのである。
２３
「自由主義的社会主義」はありえない
アクトン卿やヤコブ・ブルクハルトといった十九世紀の偉大な個人主義社会哲学者たちはもちろんのこと，その自由主義的伝統を受け継いだ，パートランド・ラッセルのような現代の社会主義者たちにとっても，権力はそれ自体，常に根源的な悪と見なされてきた。だが，真の集産主義者たちにとって，権力はそれ自体，目的なのだ。もちろん，ラッセルが的確に述べたように，人々の社会生活を単一の計画で組織することへの欲望は，主に権力への欲望から生まれてきているのだが，問題はそこにとどまるものではない。権力が目的とされるのは，むしろ，集産主義者がその目的を達成するためには，強大な権力の創出を必要とするからである。それは人が人に対して行使しうる権力であり，人類史上かつてなかったほど強大な権力でなければならないのである。そして集産主義者の成功は，こういった権力をどの程度まで強力に掌中に収めるかにかかっているのである。
２４
多くの「自由主義的な社会主義者」は，個人主義体制下で個人が所有している権力を取り上げて，社会の所有へと移すことで，権力そのものを消滅させることができるという理想を描いて，努力を重ねている。しかし，それもやはり上述したような巨大な権力の創出となってしまうことは不可避であり，彼らの理想はまったく悲劇的な幻想でしかない。こういった考え方を主張する人々が見落としているのは，計画化のために権力を集中することは，単に権力を移転することではなく，限りなく高められた権力を作り出すのだ，という点である。つまり，多数の人々が独立して行使していた権力を単一者の掌中にまとめることは，以前に存在していたどんな権力よりも限りなく大きな権力を作り出すのであり，それははるかに広大な影響力を持つがゆえにほとんど質的にも異なってしまう権力なのである。だから，時折言われることだが，へ中央計画委員会〉がどんなに強大な権力を行使しても，「民間経営者による複数の委員会が集団的に行使する権力より大きなものにはならない」という主張は，まったくの誤りである。社会主義体制の計画委員会が保有する権力のほんの一部分でさえ，競争社会では誰も持ちえないような大きなものとなることは疑いない。また，一方で委員会は集団で行動するのだから誰かが意識的に権力を行使することにはならないと言っておきながら，かたや委員として集まった資本家全員に権力がゆだねられると言うのは，説弁としか言いようがない。そもそも「民間経営者による複数の委員会が集団的に行使する権力」などというものは，経営者たちが一致団結して行動することなどありえない−！そうなれば言うまでもなく競争の終叢と計画経済の創設という事態になる−！以上，言葉の遊びにすぎない。ともあれ，権力を分割し分散させることこそ権力の絶対的な量を減少させるのであり，その意味で競争体制こそ，人が人に対して行使する権力を分散させることで，権力を最小化させるように工夫された唯一の体制なのである。
２５
経済的目的と政治的目的を分離することが個人の自由の保障にとってどれだけ不可欠であるか，またそれゆえにその分離がすべての集産主義者によってどれほど攻撃されてきたかは，すでに論じたとおりである。ここで付け加えなくてはならないのは，現在頻繁に要求される「経済的権力に代えて政治的権力を樹立すること」は，常に制限されている権力に代えて，逃げ場のない権力を樹立することを，必ず意味するということである。経済的権力と呼ばれているものは，確かに強制の道具ともなりうるものではあるが，それが民間の個人の手に分散されているかぎり，排他的権力にも完全な権力にもならず，個人の全生活を包括する権力にもならない。しかしそれが中央に集められ，政治権力の道具とされる時，それは奴隷制とほとんど区別しがたい権力への隷属を創り出してしまうのである。
２６
集産主義はあらゆる道徳を否定する
あらゆる集産主義体制は二つの中心となる特質を持っていた。一つは，あるグループの目的体系が人々に普遍的に受け入れられる必要があるということ，もう一つは，それらの目的を達成するためそのグループに最大限の権力を与えたいという，何にもまさる欲望を生み出すということ，である。そして，この二つの特質からは，ある種の道徳体系が生み出されてくることになる。その道徳体系は，自由主義的道徳とは一致する点もあり，はなはだしく対極的な点もあるのだが，ある一つの点においてあまりにも異なりすぎているので，はたしてそれを道徳と呼べるものなのかわれわれには疑問に思えるほどである。それは何かというと，集産主義の道徳体系は，個人の良心がそれ自体の法則によって自由に発動することを許しておらず，また，状況のいかんにかかわらず個人の行動を抑制したり承認したりする，一般的な法則もない，という点である。この点では違いがあまりに大きいので，われわれはそこになんらかの原則を見出すことなど無理なのではないかと思ってしまう。とはいえ，やはりそこにも原則というものはあるのである。
２７
両者の違いは，前に「法の支配」について論じた違いときわめて似ている。そこで述べた形式法による支配がそうであったように，個人主義的倫理による支配は，多くの側面で厳密さを欠くかもしれないが，普遍的・絶対的である。すなわち，それはある一般的な形の行為がどうあるべきか，どうあってはならないかを規制するが，その際その行為が究極的にめざしている目的が善か悪かは一切問わないのである。詐欺，窃盗，暴行，背信といったことは，それによって実害があったかどうかに一切関わりなく，悪とされる。たとえそれが誰にも害を及ぼさなくとも，あるいは崇高な目的のために行なわれたにしても，それらが悪であるという事実に変わりはない。われわれは時に，いくつかの悪の中からどれかを選択せざるをえない事態に立たされることがあるにしても，そこで選択したものがやはり悪であることは変えられない。「目的は手段を正当化する」という原則は，個人主義的倫理では，あらゆる道徳の否定と見なされる。ところが，これに対し，集産主義の倫理では，この原則こそ最高の倫理規範となるのである。首尾一貫した集産主義者にとっては，「全体のための善」に奉仕することであれば，あえてしてはならない行為は何もない。というのも，「全体のための善」こそが，何がなされるべきかの唯一の判断基準であるからだ。集産主義の倫理が最も明白に表現されてぃる概念に，「鴎教理曲」とぃぅ概念があるが・それはまさしく・望ましぃ目的にとってその行為が適しているか，つまりは都合のいいものかどうかという観点以外に，どんな制約も存在しない，という典型例である。この「国家理由」，つまり国家の利益を最優先するという考え方は，国と国との関係においては当然の原則であるものだが，それが集産主義国家内では個人と個人の関係に対しても同様に適用されるのである。そこでは，その共同体が自ら定めた目的，あるいは上位者が個人に達成するよう命令した目的にとって必要であるなら，市民はいかなることもなすことが許され，また個人の良心がその遂行を妨げるようなことがあってはならないのである。
２８
個人主義的美徳と軍隊的気風
言うまでもなく，集産主義の倫理には絶対的な形式規範が存在しないからといって，集産主義社会が個人に，ある有益な習慣を奨励したり，逆に別の習慣を抑制させたりすることはないとは言えない。それどころか，事態はまったく逆である。集産主義社会は，個人主義社会よりはるかに大きく，個人の生活習慣に干渉してくるだろう。なぜなら，個人はその社会での有用な一員となるべきものであり，そのためにはある特定の気風を持つことが要求され，それは絶えず繰り返し実践することで強化されなければならないのである。ただしそういった気風は，「有益な習慣」とでも言うべきもので，道徳的な美徳とはまず呼べるようなものではない。なぜなら，道徳の規制は，個人にとって社会の課す命令より優位のものであったり，共同体の目的達成を妨げたりもするが，集産主義の要請する気風においては，そのようなことがあってはならないからである。言うなればそれは，命令や目的を人々に与えただけでは埋められない，行動規範の空白部分をふさぐのに役立つものでしかなく，たとえば当局の意志と個人の行為が衝突した場合，その矛盾を正当化する何の助けも与えてくれはしない。
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集産主義体制下ではある種の美徳は尊重され続け，別の美徳は消滅してしまうだろうが，その違いは何かということは，次のように対比させるとうまく理解できるだろう。一つは，ドイツ人あるいはむしろ「典型的プロイセン人」が持っている，敵にさえ認められている美徳，もう一つは，彼らには一般に欠けていると思われており，そして英国人が自分たちはそれに優れていると自負してきた（確かにいくぶんの真実がそこにはある）美徳である。まず前者について言えば，ドイツ人は概して勤勉でよく訓練されており，冷酷とさえ言えるほど徹底的・精力的であり，どんな任務に対しても良心的・献身的であり，また秩序とか義務とか権威への絶対服従ということを尊重し，しばしば自己犠牲や肉体的危険をものともしない，ということは，ほとんどの人が認めるだろう。これらの美点すべては，彼らを与えられた任務達成のための効率的な道具とさせるものであり，昔のブロイセン帝国時代から現在のプロイセン風帝国の時代にわたって，彼らの心の中に大切に育てられてきたものなのである。これに対して，「典型的ドイツ人」に欠けていると多くの人が認めるものは，他者の個人的存在と意見への寛容・尊敬，そして精神的独立や不屈の性格や上位の者に対しても自身の信念を守ろうとする決意（彼らが「市民的勇気」と呼ぶものであるが，これは彼ら自身欠如していることを認めている），また弱者や病人への配慮，さらには権力に対する健全な軽蔑や嫌悪（これは永年にわたる個人的自由の伝統のみが生み出すものである）といった，つまりは個人主義の美徳である。欠けているということで言えば，自由な社会で人づきあいを円滑にさせている，ささやかながら重要な気風の多くもあげることができるだろう。それは，親切心やユーモアのセンス，謙遜，プライバシーの尊重，隣人の善意への信頼，といったことである。
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このように見てくれば，個人主義的美徳は，同時に優れて社会的な美徳であり，人々の社会的な接触を順調にさせ，上からの管理の必要性を減少させるとともに，そういった管理を困難にさせる，と言っても驚くに値しないだろう。この種の美徳は，個人主義型あるいは商業主義型社会が拡がったところではどこでも開花したのであり，集産主義型あるいは軍国主義型社会が拡がっていくにつれて枯死していきつつある。この二つの対立は，現在ではドイツを支配している思想と，「西」の国々を性格づけている思想との対立となっているが，それに劣らぬはっきりとした対立は，かつてのドイツ国内の地域間に見られたのである。つまり，少なくとも最近までは，長い間商業文明の力にさらされていた地域，すなわち南部および西部の古くからの商業都市や，ハンザ同盟の諸都市においての一般的な道徳理念は，現在ドイツ全土を支配しているものよりも，「西」の国々のものに，はるかに近いものだったといえよう。
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とはいえ，全体主義国家の大衆が，われわれにはほとんどの道徳的価値を否定しているとしか思えない体制を，圧倒的に支持しているからといって，彼らが道徳的熱情を欠いていると見なすことは正しくない。むしろ彼らのほとんどは，たぶんその逆なのである。おそらく，国家社会主義とか共産主義とかいった運動の背景にある道徳的感情の激しさは，人類史上の大きな宗教運動が持っていた，あの道徳感情の激しさだけが匹敵しうるほどのものだろう。ひとたび，個人というものは，社会なり国家なりと呼ばれる高次の存在がめざす目的に役立つための，単なる手段にすぎないのだと認めてしまうと，たとえそれがわれわれには恐るべきものに思えようと，今述べたような全体主義体制の道徳的気風のほとんどは，むしろ必要とされるようになるのである。集産主義者の立場に立てば，反対意見の存在を許さずそれをむりやり圧殺することとか，個人個人の生活や幸福を完全に無視することとかは，高次の目的の達成という基本命題がもたらす，当然で不可欠な帰結にすぎない。集産主義者は自らこれを認めるだろうし，むしろ自分たちの体制は，個人の「利己的な」利益が社会の目的の十全な実現を妨げることを許しているような体制より，はるかに優れているとさえ主張するだろう。こういった考えの源を作り出したドイツの哲学者たちも同様で，彼らは繰り返し，個人的な幸福に向けて努力すること自体が不道徳であり，課せられた義務を遂行することのみが称讃に値する，と述べてきたが，たとえそういった考えが異なった伝統のもとに育った者にはどれほど理解しがたいとしても，彼らはまったく心底からそう思っていたのである。
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すべてを制圧する一つの共通目的の前には，一般的な道徳や規範は存在の余地すらない。われわれも，戦時にはある程度までは似たことを経験する。幸いなことに，これまで英国では，戦争や最大級の危機においてすら，全体主義への接近はきわめて抑制されていたし，一つの目的のために他の価値が犠牲にされることもほとんどなかった。しかしそれは幸運な例であって，一般には，数少ない特定の目的だけが社会全体を支配するようになると，時には残酷なことが義務になることも避けられなくなる。人質を銃殺するとか，老人や病人を殺すといった，われわれの感性では耐えられない行為も，目的達成のための方便とみなされてしまう。また，何十万という人々が強制的に居住地から追い立てられ，移住させられたりすることが，当事者以外のほとんどが同意した政策のための単なる手段として実行に移されたり，「子供を生ませる目的のために女性を徴発する」といったような提案が真剣に計画されたり，などといった実に多くのことが避けがたく起きてくる。集産主義者の目には，それらのことを通じて達成される偉大な目的しか見えないのであり，その目的によってすべては正当化されるのである。なぜなら，社会の共通目的の追求にとっては，個人の権利や価値に基づく制限は存在しないのだから。
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不道徳な人間こそ権力への道を進む
全体主義国家の大衆は，ある理想ーーわれわれには嫌悪感しか抱かせないものであるにせよ−−に対して非利己的な献身をしているのであり，その理想こそが今述べたような行為を容認したり，あるいは自ら実行したりするよう大衆をしむけるのである。それゆえ，彼らにはある種の弁護の余地もあろうが，全体主義政策を現実に進めている者たちにはそのことはあてはまらない。そもそも，全体主義国家を運営していく側に立ってその有用なアシスタントとなるためには，ただ単に，種々の不道徳な行為を正当化する理屈を受け入れる覚悟があるというだけでは十分ではない。むしろ，与えられた目的を達成するために必要だと思われるなら，これまで知っていたあらゆる道徳的規範をも積極的に破っていく覚悟がなくてはならないのである。目的を決定するのは最高指導者のみであるから，その道具となって働く人々は，個人の道徳的信念を持つことは許されない。何にもまして要求されるのは，指導者個人に無条件に全存在をゆだねることであり，その次にくることは，どんな原則も持たず，文字通りすべてを実行する用意をしておくということである。自分が実現したいと思う理想も，指導者の意図を妨害するような善悪の考えも，持ってはならない。
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そのようなものである以上，全体主義体制の権力者の地位には，これまで欧州の人々を導いてきたような道徳的信条の持ち主を惹きつける魅力はほとんどなく，人道に反する政策を実現していく際に味わう苦渋を償ってくれるようなものもほとんどなく，より高い理想への情熱を満たしてくれるものもほとんどない。きわめて重職であるがゆえに，どんな危険にも否応なく立ち向かわざるをえず，私生活の楽しみや自由さの大部分を犠牲にせざるをえないのに，それに釣り合う見返りといえば，あまりに少ない。そこで満足させられるのは，権力それ自体の快感，人々を自分に従属させるという快楽，そしてすべてのことが道を譲る高性能で強力な機械的組織の一部になるという快楽でしかない。
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そういった全体主義の機械の一部になり，権力を保持する立場に立つことは，われわれの基準から見て優れた人にとっては，ほとんど魅力を感じないどころか，むしろ忌避すべきことだろう。しかし，冷酷な人間や無節操な人間にとっては，逆に格好の機会を提供することになるだろう。そこには，それ自体は誰もが悪行だと疑わないものだが，目的の実現には不可欠で，熟練と効率性がそれなりに要求されるような，いくつかの仕事がある。そういった，悪にほかならず，伝統的な道徳の影響を捨て去れない人にはとても実行できないような活動を，誰かがなさなければならない時，悪事を平然と行なえる者が登用され，権力を与えられることになる。全体主義社会では，残虐行為や脅迫や意図的な裏切りやスパイ行為が必要とされる役職が驚くほど多くある。ナチス・ドイツにおけるゲシュタボ，強制収容所の管理者，宣伝省，突撃隊，親衛隊（これらはイタリアやロシアにも同様の組織があるが）といった役職は，人道主義的な感情を発揮するにふさわしい場所ではない。だが，まさにこれらの地位から，全体主義政府の首脳に到る道は始まっているのである。ある優れた米国の経済学者が，集産主義国家の為政者たちの義務として，ここで述べたのと同じような手短かなりストを列挙して，次のように結論づけているが，それはあまりにも明らかな真実でしかない。
《彼らは自分が欲しようと欲しまいと，これらのことをせざるをえなくなるだろう。そうである以上，権力を保持したり，行使したりするのを好まない人が権力の地位に就く可能性は，この上なく優しい心の持ち主が，奴隷農場の鞭を振るう監督者になる可能性と同程度である。》
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しかしながら，この問題はこれで論議され尽くしたわけではない。為政者たちがその地位に就くようになるためには，単に彼ら自身の行動様式や道徳感覚の問題だけでなく，彼らが人々によって選ばれ支持されていくという側面も欠かせず存在する。それは人々がいかにしてある見解を持つようになるか，むしろ，常に変化する教義体系に人がどれだけの素早さで順応していくか，というより広い問題と緊密に結びついている。それは，全体主義が持つ最も重要な道徳上の特質の問題をわれわれに提起する。すなわち，道徳上の善を，「真実」という旗印のもとに，歪曲し樺造していくという，きわめて特殊なあり方であると同時に，またきわめて特殊な効果を持つものであるが，これは非常に大きな問題であるので，新たに一章をもうけなければならない。