自然はつねにそこにある。自然は自立自存している。自然の中，密林の中では，我々が野蛮人であっても誰からもとがめられることはない。そればかりではなく，我々は永遠に野蛮人であり続けようと心に決めることさえできるのである。その時の危険といえば，野蛮人でない他の人間がやってくる可能性だけである。原則的には永遠の原始民族が存在する可能性もあるわけで，事実，そうした民族は存在している。プレイシッヒは彼らを「永遠の曙の民族」と呼んだ。彼らは，停止し，凍結し，けっして真昼へ向かって進むことのない夜明けに留まっている民族なのである。
これは，自然そのものである世界において起こることであり，我々の世界のように文明である世界には起こらないことである。文明とはそこにあるというものではないし，自立自存もしえないものである。文明とは技巧的なものであり，芸術家もしくは職人を必要とするものである。もしあなたが文明の便役を利用したいと希望しながら，文明を維持することに関心を示さないなら，……あなたは失望する結果に終わるだろう。たちまちのうちに，あなたは文明を失うだろう。ちょっとの間でも油断して，さてあなたが周りを見回した時は，すべては雲散霧消してしまっているのである。あたかもなまのままの自然を覆いかくしていたつづれ織りがとり払われたかのように，ふたたび太古にもどって原始林があらわれるのである。密林はつねに原始であり，その逆に，原始的なものはすべて密林である。
あらゆる時代のロマン主義者たちは，人間に劣る自然物がふたたび女性の青白い肉体を抑えつける暴行場面に興奮を覚え，震えながらレダを襲う白鳥，パシパエと通ずる牡牛，山羊に辱められるアンティオべを描いた。一般的にいって，彼らは，幾何学的な形に切断され文明化された石が，野生の植物が抱擁しあう下で息も絶えだえとなっている廃嫡の風景の中に，きわめて洗練された装いのみだらな光景を発見したのである。よきロマン主義者が遠くに建物を見つけた場合，彼の目がまっ先に探すのは破風や屋根にはえている「黄色い垣根がらし」であった。「黄色い垣根がらし」はつまるところすべては土であり，どこにでも原始の森はふたたび芽を吹くものであることを告げているのである。
ロマン主義者を笑うのは愚かなことであろう。ロマン主義者にも一理はある。そうした罪なき退廃の姿の背後に，巨大にして不滅の問題が息づいているからである。つまりそれは，文明とその後に残ったもの−ｆ自然−ｆとの関係，理性的なるものと宇宙的なるものの関係という問題である。しかしここでは，この問題は別の機会に掘りさげたいということともに，適切と思う時には私もロマン主義者になる用意があることだけを宣言しておきたい。
しかし，私が今従事している仕事はそれとは逆に，原始林の侵略をくい止めることである。「よきヨーロッパ人」は今や，オーストラリアの諸州が直面している周知の重大問題，つまり，ウチワサボテンが大地を占領し人間を海に追い落とすのをいかに防止するかという問題に強い関心を示すべきである。1940年代のこと，南欧の移民の一人がその故郷――マラガであろうかシシリー島であろうか――の風景に対する郷愁やみがたく，まったくなんでもないような小さな鉢植えのウチワサボテンをオーストラリアへもっていった。ところが今日ではそれがオーストラリア大陸を侵略し，毎年一キロ以上も前進するといったありさまで，大洋州の予算はウチワサボテンとの戦いのための過重な負担に苦しんでいる仕末である。
大衆人は，自分がその中に生まれ，そして現在使用している文明は，自然と同じように自然発生的なもので原生的なものであると信じており，そしてそのこと自体によって原始人になってしまっているのである。文明は彼にとっては原生林のように見えるのだ。このことはすでに指摘したことだが，ここでさらに二，三の分析をつけ加える必要がある。
文明世界――維持しなければならないのはこれである――を支えている諸原則は，今日の平均人にとっては存在しないに等しい。文化の基本的価値など彼には興味がないのである。彼はそうした価値に共同責任を負おうともしないし，その価値に奉仕する心構えもない。いったいどうしてこんなことになったのであろうか。それには多くの理由があるが，私はここで，その一つだけをとりあげたい。
文明というものは，進めば進むほど，いっそう複雑でむずかしいものになってゆく。今日の文明が提起している問題は極端に錯綜したものである。そして，それらの問題を理解しうる頭をもった人間の数は日ごとに少なくなっていっている。戦後は，この点に関してきわめて明確な例を我々に示してくれている。ヨーロッパの再建は――現実に体験しつつあるように――あまりにも複雑すぎる問題であり，凡庸なヨーロッパ人は，かかる高度な事業には適さないことを自ら暴露している。問題解決の手段が欠けているわけではない。欠けているのは頭なのだ。より正確にいえば，いくつかの非常に数少ない頭はあるにはあるが，中央ヨーロッパという凡庸な胴体はその頭を自分の両肩の上にのせたがらないのである。
諸問題の高度な複雑さと頭の程度とのこの不均衡は，なんらかの方策を講じないかぎり日ごとに大きくなってゆき，ついには，文明にとって最も根本的な悲劇をもたらすこととなろう。文明を形成した原理が，あまりにも豊簾で適格であるがために，その実りは量においても精度においても増大し，ついには通常人の理解力を越えてしまうのである。私はこのような現象は過去には一度も起こらなかったことだと思う。過去のすべての文明は，原理の不十分さゆえに亡びたのである。ところがヨーロッパ文明は，まったく逆の理由で倒壊の危険にさらされている。ギリシャとローマにおいて失敗したのは人間ではなかった。原理が失敗したのだった。ローマ帝国が終わりをつげた原因は技術の不足である。ローマ帝国の人口がある点まで増大し，あれほど広範囲に及んだ共存を可能たらしめるために，技術をもってして初めて達成されるようなある種の物質的問題の解決が焦眉の急となり始めた時，古代世界の退化，後退，衰退が始まったのである。
しかし今日では，自分自身の文明の速度に追いついてゆけずに失敗しているのは人間の方である。比較的教養のある人々が今日の最も基本的な問題について話しているのを聴くと私は悪寒を覚える。彼らは，太い不器用な指で机の上にある一本の針をつまみ上げようとしている無骨な農民に似ている。たとえば，彼らが政治的，社会的問題を論ずる場合に道具として用いる概念は，今日の事態に比べれば二百分の一ほどの鋭敏さももたない二百年前の事態に対処するために用いられた鈍重なものなのである。
進歩した文明とは，もろもろの難問題をかかえたものというに等しい。したがって進歩の度合いが大きければ大きいほど，危険も増大するわけである。生活はますます向上するが，それと同時にますます複雑化する。問題が複雑になれば，それに対する解決手段も精巧になってゆくのは当然である。ところが，新しい世代がそれぞれにそうした進んだ手段をマスターしてゆかなければならないのである。そうした手段の中に――少し問題を具体化するために一例をひけば――文明の進歩ときわめて自然に結びついた一つの手段としての歴史がある。歴史とは，自分の背後に多くの過去すなわち経験をもっということである。歴史的知識は，成熟した文明を維持し継続してゆくための第一級の技術なのである。それは歴史的知識が生の紛争の新しい様相――生はつねに一瞬ごとに変化している――に積極的な解決策を与えてくれるからではなく，以前の時代の素朴な誤りをふたたび繰り返すのを防いでくれるからだ。あなたが老人になり，したがってあなたの生が困難になり始めたばかりでなく，さらに過去の記憶まで失ってしまい，あなた自身の経験を活用しなくなったとすれば，その時すべてはあなたにとって不利に転じるのである。私のみるところでは，ヨーロッパの現状がまさしくこれである。今日の最も「教養」ある人々が，信じられないほどの歴史的無知に陥っているからである。私は，今日の指導的なヨーロッパ人は，十八世紀いや十七世紀の人間よりも歴史を知らないと断言してはばからない。十九世紀の奇跡的な進歩を可能としたものは，あの少数支配者――支配者の意味を広義に解釈していただきたい――の歴史的知識であった。十九世紀の政治は，まさに過去のいっさいの過ちを避けるために――十八世紀によって――練り上げられ，そうした誤りを考慮して発想されており，そこには最も長期にわたる経験が要約されているのである。しかし十九世紀も，科学としての歴史は専門家の手によって大いに発展したが，すでに「歴史的文化」は失い始めていた。今日我々の上に重くのしかかってきている十九世紀特有の誤りの大部分は，この歴史的文化の放棄に起因するのである。十九世紀の最後の三十年間に――まだ表面に現われてはこなかったが――退化というか野蛮への後退，つまり，自分の過去をもたぬかあるいは忘れてしまった者の無邪気さと原始性への後退が始まったのである。
だからこそ，ヨーロッパとその隣接地域で現在行なわれつつある二つの「新しい」政治的な試み，つまりボルシェヴィズムとファシズムも，この本質的な後退の明瞭な二つの例である。私がそれらを本質的な後退というのは，彼らの教義の内容を指していっているのではない。その内容をそれなりにとりあげてみれば，当然ながら一片の真理をもっているのであるー−この宇宙には，いささかの真理ももたぬものなど存在しない。むしろ，彼らが自分たちの正当性を取り扱う場合の，反歴史的，時代錯誤的な方法を指しているのである。大衆人の運動の常として，凡庸で，時代に則しておらず，古い記憶もなければ「歴史意識」もない人間に指導された典型的な大衆人の運動は，初めからあたかもすでに過去であるかのごとく，つまり，今起こりつつありながらあたかも昔の人類に属しているかのようなふるまい方をするのである。
問題は共産主義者になるかならないか，ボルシェヴィキになるかならないかにあるのではない。私は信仰箇条を議論しているのではない。時代錯誤的であって我々に理解できないのは，1917年の共産主義者が，それまでにあった革命とまったく同じ形の革命に突き進んだことであり，そこでは過去の革命における欠陥と誤りがいささかも修正されていないという事実である。したがって，ロシアで起こったことは，歴史的には興味のあるものではない。それは，人間的な生の一つの出発点とはまったく正反対のものである。それは，今までの革命の単調な繰り返しであり，革命というものの完全な常套語にすぎないのである。だから，人間の古い経験が革命に関して作りあげたきまり文句のうち，ロシア革命についてもあてはまらないものは，悲しいかな一つもないといったありさまである。たとえば「革命はその革命自身が生んだ子供まで呑み込んでしまう」とか，「革命は節度のある一派によって始められるが，すぐに極端分子の手に移り，間もなく復古へと後退を始める」等々である。こうした尊重すべききまり文句の他に，これらほど知られてはいないが，妥当性の点ではけっして劣らない二，三の真理をつけ加えることができよう。その中の一つに，革命というものは15年以上は続かないというのがある。つまり，一つの世代が権力の座にありうる期間以上は続かないというのである。
真に新しい社会的あるいは政治的現実を創造したいという野心をもつものは，何よりもまず，歴史的経験が生み出したこうしたきわめてお粗末なきまり文句が，彼が誘発しようとしている状態によって，無効となるよう心がけねばならないのである。私としては，天才的という形容詞を，次のような政治家のために，つまり，彼が政治を始めるやいなや，歴史学の先生たちが，自分の学問の「法則」のすべてが無効になり，分断され，こなごなに粉砕されてゆくのを目前にして，気も狂わんばかりに動転するといった事態を生ぜしめうる政治家のために保留しておくつもりである。
ボルシェヴィズムの場合の符牒を逆にすれば，ファシズムについても同じようなことがいえよう。このいずれの試みも「時代の高さ」に達していないし，自己の中にいっさいの過去を縮図としてもっていないのである。いっさいの過去を自己のうちに縮図的に蔵することこそ，いっさいの過去を超克するための不可避的な条件である。過去と戦う場合，我々はとっ組み合いをすることはできない。未来が過去に勝つのは，未来が過去を呑み込むからである。過去のうちの何かを呑み込みえないままで残すとなれば，それは未来の敗北である。
この両者――ボルシェヴィズムとファシズム――は，ともに似て非なる夜明けである。それらはいずれも明日の朝をもたらすものではなく，すでに一度ならず何度も何度も使い古された古風な一日の夜明けをふたたびもたらしたにすぎないのである。要するに両運動とも野蛮性への後退なのだ。過去を消化吸収する方向をとらずに，過去のこの部分あるいはあの部分というふうに過去の一部と単純に格闘を演ずるという愚かさを犯す運動は，すべて野蛮性への後退なのである。
19世紀の自由主義が超克されねばならないことに疑問の余地はない。ところが，これは，ファシズムのように反目由主義を宣言するものがなしえないことなのである。なぜならば，そうした態度――つまり反目由主義的態度，あるいは非自由主義的態度――こそ，自由主義以前の人間がとっていた態度だからである。そして，一度自由主義が反あるいは非自由主義に勝利を収めたのであるから，自由主義の勝利が今後も数限りなく繰り返されてゆくか，さもなくば，すべてが――つまり自由主義も反目由主義も――ヨーロッバの破壊に終わってしまうかのいずれかである。生には仮借なき年代記がある。その年代記において，自由主義は反目由主義よりも新しいのである。ということは，大砲が槍よりも優れた武器であるように自由主義の方が反目由主義より優った生なのであるというに等しい。
一見したところでは，反何々という態度は，この何々よりも新しいように見える。というのは，そうした態度はその何々に対する反抗を意味するものであり，その何々の存在を前提としているからである。ところが，この反が意味する革新性は，空虚な否定的態度のうちにかき消されてしまい，その後に積極的な内容として残されるものは「古物」にすぎないのである。誰かが反べドロを宣言したとする。彼の態度を肯定形式でいいかえれば，ベドロのいない世界に賛成したということに他ならない。ところが，ベドロのいない世界とは，ベドロが生まれていない以前の世界のことである。したがって，反べドロ主義者は，ベドロ以後に自分を位置づける代わりに，ベドロ以前に自分を位置づけ，映画の全巻をもう一度過去のシチュエーションに焼き直すということをするわけだが，そのフィナーレには，情け容赦なくべドロがふたたび登場することになる。つまり，こうした反何々主義者のすべてには，伝説が孔子の身の上に起こったと伝えていることと同じことが起こるのである。孔子は，当然のことながら彼の父より後に世に生まれ出た。ところが，なんということであろう，父は30歳であったのに，彼はすでに80歳として生まれた。要するにいっさいのアンティは，単純で空虚なノーに他ならないのである。
我々が，ただノーというだけで過去を抹殺しうるならば，すべてはしごく簡単であろう。しかし，過去はその本質からして黄泉の国から戻って来る亡霊なのであり，我々が放り捨てても戻って来る。必ず戻って来るものなのである。したがって，過去を克服する唯一の方法は，それを放り捨てることではなく，過去を考慮に入れ，つねに目前に置いて，これを避けるようにふるまうことである。要するに，歴史的時点に対する鋭敏な意識をもって，「時代の高さ」に生きることである。
過去にはそれなりの正当な理由がある。もし我々がそれを認めなければ，過去はそれを認めるよう要求しに戻って来るだろうし，戻ったついでに，本来もってもいなかった正当性までをも認めるよう要求するだろう。十九世紀的自由主義には，それなりの正当性があったのであり，それだけは世々にいたるまで認めなければならない。しかし，自由主義が全面的に正当であったわけではないのだから，本来正当である部分以外は，これを認めることを拒否しなければならない。ヨーロッパはその自由主義の本質を保持してゆかなければならないのであり，これこそが，十九世紀的自由主義を超克するための条件なのである。
私はここでファシズムとボルシェヴィズムについて語ったが，しかし私がとりあげたのは，その両者がもつ時代錯誤的な面のみである。私はこの時代錯誤こそ，今日勝利を納めつつあるかに見えるすべてのものに不可分の特徴だと考えている。なぜならば，今日凱歌をあげているのは大衆人であり，したがって，大衆人によって形づけられた試み，大衆人の原始的な方法に満ち満ちた試みのみが，明らかな勝利を祝いうるのだからである。しかし私は，両者に対する考察をここでとどめ，これ以上つっ込んで両運動の内容について論議しようとは思わないし，また，革命と進歩の永遠のジレンマをここで解消しようとも考えていない。この拙論において私があえて要求する最大のことは，革命にしろ進歩にしろ，歴史的なものであって時代錯誤的なものであってもらいたくないということである。
私がこの拙論で追求しているものは，政治的には中性である。というのは，私が対象としているのは政治や政治的紛争よりもはるかに深い層に息づいている問題だからである。今日の保守派も急進派もともに大衆である点においては変わりはない。この両者の相違はーーあらゆる時代を通じてこの相違はきわめて皮相的なものであった――両者がまったく同一の人間，つまり反逆的庶民であることをなんら妨げるものではないのである。
ヨーロッバの運命が，真に「今日の」人々，自分の足下に今までの歴史的過去のすべてが底流となって脈うつのを感じとり，今日の生の高さを認識し，あらゆる古風で未開な態度を嫌悪する人々の手に委ねられていないかぎり，ヨーロッパの救いはありえない。我々が過去の中に転落せず，過去から逃れうるためには，過去の全歴史を必要とするのである。