大衆の反逆

*第ニ部　世界を支配しているのは誰か

一四　世界を支配しているのは誰か

　ヨーロッパ文明は――すでに繰り返し指摘したことだが――自動的に大衆の反逆を生み出した。そして，この大衆の反逆は，表面から見れば，楽観的な様相を呈している。すなわち，すでに述べたごとく，大衆の反逆とは，人間の生がわれわれの時代にいたって経験した驚異的な成長そのものに他ならないからである。しかしその裏側は実に恐ろしい様相を呈している。すなわち，裏面から見た大衆の反逆とは，人類の根本的な道徳的退廃に他ならないからである。そこでわれわれは，この人類の道徳的退廃を新しい観点から眺めてみることにしよう。

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　一つの新しい歴史時代の本質ないし特性は，内面的変化――つまり人間と人間精神の変
化――もしくは外面的変化――つまり形式的で機械的ともいえる変化――の結果である。この後者のうちで最も重要なものは疑いもなく権力の位置転換だが，これは必然的に精神の位置転換をもたらすこととなる。

　したがって，われわれがある時代を理解しようとしてその時代を眺める場合にわれわれが発すべき質問は，「現に世界を支配しているのは誰か」でなければならないはずである。しかし，その時代に，人類が互いに連絡のないいくつもの部分に分かれていて，それぞれが独立した内部世界を構成しているような場合もありうる。たとえばミルキアーデスの時代には，地中海世界は極東世界の存在を知らなかった。そのような場合には，われわれは，共同生活を行なっている一つ一つの集団に関して，「世界を支配しているのは誰か」という質問を発しなければならないであろう。しかし十六世紀を境として，全人類は巨大な統一化の道を歩み始めたのであり，その過程はわれわれの時代にいたって終着点に達したのである。もはや，人類には他から分離して生きている部分はなくなったのであり，人類の離れ小島はなくなったのである。したがって，十六世紀以後に関しては，世界を支配している者は，実際にその権威ある影響を全世界に及ぼしていると解することができるのである。ヨーロッパ民族によって形成された同質的な集団が三世紀にわたって果たしてきた役割がまさにそれであった。その間はヨーロッパが命令を下し，世界はヨーロッパの統一的支配のもとに，単一の様式というか，少なくとも漸進的に統一化されていった様式によって生きていたのである。

　この生の様式は普通「近代」と呼ばれている。灰色で無気力な名前だが，その背後には，ヨーロッパの覇権の時代という現実がかくされているのである。

　わたしがここでいう「支配」は，物質的力の行使，物理的強制を意味しない。それはわたしが，愚かな過ち，少なくとも最も大きく最も明瞭な過ちだけは犯したくないと願っているからである。事実，あの「支配」と呼ばれている人間間の安定した正常な関係は，けっして力に拠るものではないのであり実はまったくその逆なのである。というのは，一人の人間もしくは一つの人間集団が支配するのであり，彼らがあの「権力」という社会的装置というか機械を用いるのだからである。一見して権力が支配の基礎となっているように見える実例を，よく検討してみると，それがわたしの主張を確証する最良の実例であることが明らかになるであろう。ナポレオンはスペインを侵略し，しばらくの間その侵略状態を続けたが，彼が真にスペインを支配したことはただの一日もなかった。しかも彼は権力はもっていたわけだが，実はそれは彼がまさに権力しかもっていなかったがためなのである。われわれは侵略という事実もしくは過程と支配という状況とを区別しなければならない。支配とは権威の正常な行使である。それはつねに世論に支えられているものであり，この事実は今日も一万年前も，イギリス人の場合もブッシュマンの場合も変わりないのである。いまだかつて，世論以外のものに支えられて支配を行なった者は地球上には一人もいないのである。

　世人は，世論の至上権は，一七八九年に法律家ダントンが，あるいはまた十三世紀に聖トマス・アクィナスが発明したものだとでも信じているのであろうか。世論の至上権という概念は，確かにどこかの場所でいずれかの時代に発明されたものだろう。しかし，世論が人間社会に支配という現象を生み出す基本的な力であるという事実は，人間と同じくらい古く恒久不滅の事実なのである。それは，ニュートン物理学において，重力が運動を生起させる力であるというのと同じである。世論の法則は，政治史の普遍的重力なのである。世論なくしては，歴史学さえ成立しえないであろう。したがってヒュームが鋭く洞察しているように，歴史学の課題は，世論の至上権はユートピア的な大望といったようなものではなく，人間社会においてつねに，そしてあらゆる瞬間に起こった現実であることを示すところにあるのである。なぜならば，古代トルコの禁衛兵のような組織をもって統治を行なおうとする者さえも，それら禁衛兵の意見と，その他の住民が禁衛兵について抱いている意見とに依存しているからである。

　実のところ，禁衛兵組織をもって支配を行なうことはできない。だからこそ，クレイランはナポレオンに対して，「陛下，銃剣をもってすれば何事も可能ですが，ただ一つ不可能なことがあります。それは，その上に安座することです」と言上しているのである。支配とは，他から力を奪い取る態度ではなく，力の静かな行使なのである。要するに，支配とはすわることなのである。玉座に，大宮の椅子に，議会の大臣席に，各省大臣の椅子に，そして司教座にすわることなのである。無邪気な三文小説的な親方とは逆に，支配とは，握り拳の問題であるよりも，むしろお尻の問題なのである。国家とは，つまるところ世論の状態，一つの均衡状態，静態なのである。

　ところで，応々にして世論が存在しない場合もありうる。一つの社会が意見を異にする集団に分裂していて，それぞれの意見が相殺されるような場合には，支配権が構成される余地はない。そして，自然は真空をいみ嫌うものだから，その世論の力の不在がもたらす空白を凶暴な力が埋めることになる。そして最悪の場合には，その暴力が世論の代用品となるにいたるのである。

　したがって，世論の法則を歴史的力の法則として正確にいい表わそうとする場合には，そうした世論不在の場合を考慮に入れる必要があり，そうすれば，われわれは一つの公式に到達するわけだが，それはすでに周知の，尊重すべき，しかも真実をいいあてているあのきまり文句，つまり，「世論に反して支配することはできない」なのである。

　以上のことからわれわれは，支配とは一つの意見の，したがって一つの精神の優位を意味することであり，支配権力とはつまるところ精神力以外の何ものでもないということに気づくのである。そして歴史的事実がこのことを明確に証明している。原始時代の支配権はすべて「神聖な」性格をもっていた。それは支配権が宗教的なものに基礎を置いていたからだが，この宗教的なものこそ，後に精神，理念，思想となるもの，つまり，非物質的で形而上的なものをつねにその背後にもっている最初の形式なのである。中世になると同じ現象がさらに大規模に繰り返された。ヨーロッパにおいて最初に形成された国家というか国家権力は，独自の性格をもち，すでに「精神的支配権」の主体であったところの教会であった。政治的権力はこの教会から，自分もまた本来は精神的権力であり，ある種の理念が有効化されたものに他ならないことを学んだのであり，そこで神聖ローマ帝国が創設されたのである。かくしてともに精神的である二つの権力が争い合うこととなったが，ともに精神なのであるから，その本質において相互に区別し合えぬままに，それぞれが異なった時間的範時，つまり，有限の世界と永遠の世界に立脚するものであるという和解に達したのである。世俗的権力も宗教的権力もともに精神的なものである点ではまったく変わりないが，しかし一方は有時の精神すなわち此岸的で変移的な世論であるのに対して，他方は永遠の精神すなわち神の見解，神が人間と人間の運命に関して有している見解なのである。

　したがって，これこれの時代にはこれこれの人間，これこれの民族あるいは同種の諸民族からなるこれこれの集団が支配したということは，これこれの時代の世界には，これこれの意見――すなわち思想，好み，願望，目的――の体系が支配的であったというに等しいのである。

　しかし意見の支配力とはいったいどう解説したらよいのであろうか。大多数の人間は意見をもっておらず，彼らには，潤滑油を機械に注入するように，意見も圧力をかけて外から注入されねばならないのである。だからこそ，精神が――それがいかなる種類のものであろうとも――権力をもち，意見なき人々――しかもそれが大多数である――が意見をもつようその権力を行使しなくてはならないのである。意見なくしては，人間の共存は混乱に終わるであろう。いやそれ以下，つまり，歴史的無と化すであろう。意見なくしては，人間の生は構造を失い組織性を失ってしまうであろう。したがって，精神的支配権力がない場合は，すなわち，誰か命令を下す者がいない場合は，それが欠ける度合いに比例して，人類は混乱の支配下に下ることとなるのである。また同様に，すべての権力の移動，つまり，支配的要素のいっさいの変化は，同時に，意見の変化であり，つまるところ，歴史的重力の変化でさえあるのである。

　さて，ここでふたたび出発点に立ち返ることとしよう。この数世紀の間，世界を支配してきたのは，近似的な精神をもった諸民族の一集団であるヨーロッパであった。ヨーロッパの中世においては，現実世界を支配したものは誰もいなかった。実は歴史上のすべての中世がそうであった。だからこそ，中世はつねに，比較的混乱の多い時代であり，比較的野蛮で意見の欠如した時代であったのである。中世とは，人々が愛し，憎み，渇仰し，反発した時代，しかもそれを大規模に行なった時代であり，その逆に意見を出すことはほとんどしなかった時代なのである。こうした時代にも大きな喜びがなかったわけではない。しかし，偉大な時代においては，人類は意見によって生きており，したがってそこには秩序がある。中世の彼方にも，われわれは，近代と同じように，支配する者のいた時代を見出すことができる。その支配権の及ぶ範囲は世界の一部分に限られてはいたが，あの偉大なる支配者ローマがそれである。ローマは地中海とその隣接地域に秩序を打ち立てたのであった。

　第一次大戦後の今日，人々は，ヨーロッパはもはや世界を支配していないといい始めている。しかし，そうした人々はこうした判断のもつ重大さに気づいているのであろうか。そういうことはとりもなおきず権力の移行を予告することだからである。それでは権力はどこへ移行しようとしているのだろうか。世界の支配に関して，ヨーロッパの後継者たらんとする者は誰なのか。しかし，とにかく誰かがヨーロッパにとって代わるというのは確かなことなのだろうか。そして，もしも後継者がいないとなれば，いったいどうなるのだろうか。
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