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世界には，あらゆる瞬間に，したがって現時点においても，無数のことが起こりつつあるというのがまどうかたなき真実である。したがって現在，世界に何が起こりつつあるかをいいつくそうとすることは，自らの思いあがりを嘲笑するようなものだと心得るべきであろう。しかし，まさに，現実のすべてを直接に把握することが不可能だからこそ，我々としては，自分なりの現実を構想し，物事がある一定の方式に従っていると想定する以外に途がないのである。こうすることにより，我々は一つの図式，つまり，一つの概念，あるいは諸概念の網を作りあげることができる。そして，ちょうど方眼紙をもってするように，その図式をもって真の現実を眺めるならば，その時，そしてその時にのみ，現況の近似的なヴィジョンを得ることができるのである。これが科学的方法なのである。いや，そればかりではなく，知性の使い方はすべてこうあるべきなのだ。我々が，庭の小径をやって来る友人を見て「ベドロだ」といったとすると，その時我々は，故意にそしてアイロニックに一つの過ちを犯すことになる。なぜならば，ベドロは，我々にとっては，肉体的・精神的なもろもろの態度――つまり我々が「性格」と呼ぶもの――の一つの図式的な索引であるからであり，我々の友人べドロは，しばしば，「我々の友人べドロ」という観念にはほとんどまったく似てもいないというのが真実だからである。
概念というものは最も卑俗なものも最も科学的なものもすべて，幾何学的にカットされたダイヤモンドが爪のある金の台に球められているように，自分自身のアイロニーの上に，明るく微笑する自分の歯の上に置かれているものなのである。概念は大まじめに「これがＡであり，あれがＢである」という。しかしそのまじめさは，皮肉者のまじめさである。それは，供笑を噛みこらえ，唇をしっかりと結んでいないと笑いを噴き出してしまいそうな者の不安定なまじめさである。概念自身は，これがＡでないこともはっきりと承知しており，あれがＢでないことも完全に知りつくしている。概念が考えていることは，厳密にいって，彼が口に出していうこととはやや違っており，この二枚舌であるところにアイロニーがある。概念が本当に考えていることは，次の通りである。すなわち「私は，厳密にいえば，これがＡでもなければ，あれがＢでもないことを知っている。しかし，これをＡあれをＢと認めることによって，その両者に対して私がとる現実の態度に関して，私自身とうまく折り合うのだ」。
このような理性の認識論をギリシャ人が聞いたら不快の念を抱くことだろう。なぜならば，ギリシャ人は，理性の中に，概念の中に，現実そのものを発見したと信じていたからである。これに対して我々は，理性，概念は，人間が人間の生という無限にしてきわめて錯綜した現実のまっただ中にあって，自分自身の位置を明らかにするために用いる不可欠な道具であるというふうに考えている。生とは，我々が事物の中にあっておのれを持するために行なう事物との戦いである。概念とはそれら事物の攻撃に対して応戦するために，我々が自分で練る作戦計画なのである。したがっていかなる概念もその最も奥底を精査してみれば，概念は事物自体については何も語っておらず，要は人間がその事物をもって何をなしうるか，あるいはその事物からどういう害を蒙りうるかを要約したものであることを発見するであろう。あらゆる概念の内容はつねに生に関連づけられており，それはつねに一人の人間にとって可能な行動もしくは可能な苦悩であるとする限定的な見解は，私の知るかぎりでは，今日までのところ誰によっても主張されていない。しかし私はこれが，カントに始まった哲学の発展過程のまどうかたなき目標であったと考える。だからこそ，カントまでの哲学の流れのすべてをこの見解に照らして再検査してみると，すべての哲学者は，根本的には同じことをいってきたように見えるのである。ところで，あらゆる哲学的発 見は，要は，被いをとり除くことであり，根底に横たわっていたものを表面に引き上げることに他ならないのである。
しかしこうした前口上は，私がこれからいおうとしている，哲学的な問題とはおよそかけ離れたことにとってはふさわしいものとはいえない。私はただ，今日の世界――ここでいう世界とは歴史的世界である――に起こっていることは，要するに今までの三世紀間はヨーロッパが世界を支配してきたが，現在では，支配することにも支配し続けることにも自信をもっていない，ということだといおうとしたのである。今日の歴史的現実を構成している無数の事物をかかる簡潔な表現にまとめてしまうということは，最もうまくいった場合ですら誇張に堕することは明らかである。だからこそ，私は読者諸兄に，思索するということは，好むと好まざるとにかかわらず，誇張することなのだということを想起していただく必要があったのである。誇張を好まない人は口をつぐむ以外に仕方がない。いやそれどころか，自己の知性を麻癖させ，愚鈍化させる方法をまのあたりにしなければならないのである。
とにかく，私は，今日の世界に本当に起こっていることは右に述べたことであり，それ以外はすべてその結果であり，条件であり，兆候もしくは挿話であるにすぎないと信じている。
私はヨーロッパが支配を止めたとはいわなかった。そうではなくて，厳密にいって，ヨーロッパは近年，支配すべきか否か，あるいは明日も支配し続けるか否かについて重大な疑問を抱いているといったのである。そしてこれに相応して，地球上の他の諸民族の間に，現在自分たちは誰かに支配されているかどうかと疑う同種の精神状態が生まれている。彼らもまたこの点に確信をもっていないのである。
近年ヨーロッパの没落が大いに議論されてきた。ヨーロッパあるいは西欧の没落に言及しただけで，すぐにシュベングラーを思い出すといった無邪気な過ちはもう犯さないでいただきたい。彼の著作が公にされる以前から，すでに多くの人々がこの点を議論していたのであり，彼の著作が成功を収めたのも，周知のとおり，そうした疑問や心配が，感じ方や理由こそ各種各様ながらすべての人々の脳裡に存在していたからこそだからである。
ヨーロッパの没落についてあまりにもしばしば議論が繰り返されてきたために，多くの人々がそれを一つの事実とみなすにいたっている。彼らとても，まじめにそしてなんの疑いもなく，そのことを信じているというのでもなく，ある時からはっきりとそう確信しようと決めたわけでもないが，とにかくヨーロッパの没落は確かなことだと考えるのに慣れてしまっているのである。ワールド・フランクの近著『アメリカの再発見』は，完全にヨーロッパが死に瀕しているという前提に立って書かれている。それにもかかわらずフランクは，彼のこの恐るべき前提となっているたいへんな事実を分析することも議論することも疑問視することもしていないのである。彼はなんら詮索することもせずに，ヨーロッパの没落を確実なこととしてそこから出発している。私は，フランクがこうした無邪気な出発点を選んでいることは，彼がヨーロッパの没落を信じていないとするに十分であると考える。それどころか，彼はヨーロッパの没落を問題として提起したことさえない。彼はあたかも電車にでも乗るようにこの意見を採用しているのである。けだし，きまり文句こそ，知的交通の電車なのだといえよう。
そして彼と同じことを多くの人々が行なっているのだ。特に各民族が，民族全体が行なっているのである。
今日の世界が呈している光景は，典型的に子供っぽいものである。小学校では，誰かが先生が帰ってしまったというと，子供たちはわっと踊り上って秩序を失ってしまう。子供の一人一人が先生がいるという威圧感から逃れ，規則という重荷を投げ捨て，自由にふるまい，自分が自分の運命の主人になったのだと感じる喜びにひたるのである。しかし，彼らに課業と仕事を課していた規則がとり除かれると，子供たちには元来固有の用事も，正式な役割も，意味や継続性や方向の定まった仕事もないのだから，結局はとび跳ねる以外のことは何もできないのである。
幼い諸民族が示している浮薄な光景は，嘆かわしいかぎりである。ヨーロッパが没落し，したがって支配するのを止めたと聞くや，諸国民やまだ国民になりきっていない民族は，とび跳ね，体をうち振り，逆立ちしたり，あるいは，胸を張って体を伸したりして，あたかも自分自身の運命を支配している大人のふうを装っている。ここに，世界中のあらゆるところに松茸のように「民族主義」が頭がもたげている原因があるのである。
私は，これまでの数章において，今日の世界を支配している新しいタイプの人間の実相を明らかにしようと試みてきた。私はその人間を大衆人と呼び，その主な特徴は，波は自分自身凡庸であることを自覚しつつ，凡庸たることの権利を主張し，自分より高い次元からの示唆に耳をかすことを拒否していることである点を指摘した。もしこうした人間としての態度が各民族の中で支配的であるならば，諸国民の総体の中にも同じ現象が現われてくるのは当然である。歴史を形成してきた人類のエリートである偉大な創造的民族に対して断乎として反抗しようとする「大衆民族」も存在するのである。これあるいはあれといった小さな共和国が，世界の片隅から爪先立ってヨーロッパを護責し，その世界史上の職を免職にすると宣言している姿は，まったく滑稽そのものである。
結果はどうであろうか。ヨーロッパは一つの規範体系を創造した。そしてその有効性と生産性はこの数世紀間に証明されてきた。しかしその規範はけっして最良のものではないし，それにはほど遠いものである。しかし，他の規範が存在するか出現するかするまでは，これが決定的なものであることは疑いのないところである。ヨーロッパが創造した規範を超克するためには，新しい規範を生み出すことが不可欠である。ところが，大衆民族はその規範体系，つまり，ヨーロッパ文明を無効と宣することに決めはしたが，別の体系を創造する能力がないので，何をすべきかを知らず，ただ時間をつぶすために夢中でとび跳ねているのである。
これが，世界が支配者を失った時に現われてくる最初の結果である。つまり，被支配者たちは，反抗することによって，仕事もなく生の計画ももたぬ状態にとり残されてしまうのである。