*３
あるジプシーが告解をしようと思って教会に行ったところ，慎重な司祭は告解を始める前に彼が神の淀を知っているかどうかを聞いたという話がある。この質問に対してジプシーは「神父さま，あっしは，そいつをおそわろうと思ったんだがね，ありやーそのうち廃止になるって噂を聞いたんで……」と答えた。
世界の現状はまさにこれではなかろうか。ヨーロッパ的淀はすでに効力をもたないという噂が伝わり，それを聞いた人々――個人と民族――が機会到来とばかり淀なしの生を生きているのである。淀なしというのは，ヨーロッパ的なもの以外は存在していなかったからである。今日の現状は，過去において幾度か起こったような，あの新しい規範の誕生が従来の規範を追いやり，新しい情熱が，その若々しい活動の中に冷却しかかっている古い情熱を吸収してゆくというのとは違うのである。そうあるのが普通であろう。しかもその場合，旧来のものが本当に古くなるのは，それが老化したがためではなく，目の前に，新しさゆえに一気に既存のものの優位に立つような別の原則が現われたからなのである。もし我々に子供がなかったら，我々は老人にはならないであろうし，少なくとも老人になるのにはるかに多くの時間を要することだろう。道具，機械類に関しても同様である。十年前の自動車は二十年前の機関車よりも古く見えるが，それは，自動車製造技術の発明・発見が機関車の場合よりいっそう急速に行なわれたというだけの理由によるのである。新しい青春の開花に起因するかかる没落は，実は健康のしるしというべきものである。ところが，今日のヨーロッパに起こっていることは，不健康で不自然なことなのだ。ヨーロッパ的捷は，他の淀が地平線に姿さえ見せないうちにその効力を失ってしまった。ヨーロッパは支配することを止めたと人はいうが，ヨーロッパにとって代わる者は見当たらないのである。ここでいうヨ’ロッパとは，時にそして正しくは，フランス，イギリス，ドイツの三位一体を意味する。この三国が占めている地球上の一画において，一つの人間存在の尺度が成熟し，それに従って世界が組織されてきたのである。世人がいうように，もしそれら三国が没落しつつあり，彼らの生の計画が効力を失ってしまったとしたならば，世界が混乱に陥っているのもなんら不思議ではないのである。
そしてそれは紛れもない真実なのである。すべての人々――国民も個人も――が混乱に陥っている。この混乱も，しばらくの間は，人々を楽しませ，なんとなく夢さえ抱かせるだろう。下位の者は，自分たちの重荷がとり除かれたように感じる。確かに十誠というものは，それが石あるいはブロンズの上に刻まれた時以来，重圧的な性格をもっているのである。命じるとは語源的には人の両掌に何かをいっぱいに負わせるというか置くことを意味する。そして命じる人はまさに疎ましい存在なのである。世界中の下位の人々は，すでに何かを負わされ，任務を与えられるのに飽き飽きしており，この重々しい淀から解放された叫時をお祭り気分で過ごしているのだ。しかしお祭りは永く続くものではない。我々にある種の方法で生きることを義務づける碇がなくなってしまえば，我々の生はまったくの特命状態に停滞してしまう。今日，世界の最良の青年たちが置かれている恐るべき心理状態が実はこれなのである。彼らは自由であると感じるあまり，なんらの束縛ももたないと感ずるあまり，自己が空虚であると感じるのである。特命中の生は，死以上の自己否定である。なぜならば生きるということは何か特定のことをなさなければならないということ――一つの任務を果たすこと――であり，我々がその生を何かに賭けることを避ける度合いに比例して，我々は自己の生を空虚にしてゆくのである。全地球上から恐ろしい叫び声が湧き起こり，無数の大のほえ声のように天空にまで響きわたり，命令を下してくれる者，仕事や義務を与えてくれる者の存在を求める日もそう遠くはないであろう。
私は，このことを，子供特有の無意識さでヨーロッパはすでに命じることをやめた，と告げている人々に対していいたいのである。命じるということは，人々に仕事を与え，人々をその運命の中へ，その常道の中へ導入することである。つまり，人々が逸脱することを防ぐことなのだ。逸脱は放浪，空虚な生，悲嘆となるのが普通である。
ヨーロッパが命じることをやめたとしても，ヨーロッパにとって代わりうる者がいるかぎりは問題ではないであろう。しかし，その姿さえ見当たらないのである。ニューヨークもモスクワもヨーロッパと比べてなんら新しいものではない。両者はヨーロッパ的捷の二つの小郡分なのであり，全体から分離してしまったために，その意義を失ってしまったものである。はっきりいえば，ニューヨークとモスクワについて語るということは寒気さえ感じる。なぜならば，両者が何ものであるかはまだ完全には分かっていないからである。たった一つ分かっているのは，このいずれに関してもまだ決定的なことは何もいわれていないということである。しかし，完全には分かっていなくても，両者の一般的な性格を理解するには十分なものは得ることができる。ニューヨークもモスクワも，私がしばしば指摘してきた「歴史的カムフラージュの現象」の例であることは確かだ。カムフラージュとは，本質的にいって，外観とは異なった現実である。その外観は，本質を明示する代わりに隠蔽する。だからこそたいていの人々を惑わすのである。このカムフラージュが生み出す幻惑にひっかからずにすむのは，あらかじめ，一般的な意味でカムフラージュというものが存在することを知っている人のみである。蜃気楼の場合もまったく同じだ。つまり概念が視覚を是正するのである。
歴史的カムフラージュのあらゆる事例には，重なり合っている二つの現実がある。一つは実質的で本質的な下層の現実であり，もう一つは目に見える偶有的な上層の現実である。たとえばモスクワは，ヨーロッパの現実と問題を前にして考え出されたヨーロッパ的観念の皮膜――マルクシズム――をかぶっている。しかしその下には，単にヨーロッパ民族と素質的に異なっているばかりでなく，年齢をも異にする――そしてこちらの方がいっそう重要である――民族が存在するのである。それは，まだ醗酵状態にある民族，つまり，若々しい民族である。マルクシズムが工業の存在しないロシアにおいて勝利を収めたということは，マルクシズムの上に起こりうる最も大きな矛盾であるといえよう。しかし，かかる矛盾は実際には存在しない。なぜならばまだ勝利を収めたわけではないからである。ロシアは，神聖ローマ帝国のドイツがローマ的であった程度に，近似的にマルクス主義的なのである。新しい民族というものは理念をもっていない。彼らは，古い文化が存在するかあるいは今まで存在していたような地域で成長する場合には，その古い文化が提供してくれる理念で身を包むのである。ここにカムフラージュとその根拠がある。私がたびたび指摘したように，人々は，民族には二つの大きな発展の型があることを忘れている。一方においては，まったく文明というものが存在しない「世界」に生まれ出る民族がある。エジプト民族や中国民族がその例である。こうした民族においては，すべてがその土地で生まれたものであり，彼らの動作も明確直裁な意味をもっている。しかし他方には，異質の歴史をもった文化にすでに支配されている地域に生まれ発展する民族がある。たとえば，すでにギリシャ＝オリエント的文明をいっぱいに吸い込んでいた地中海のまん中に生まれたローマがその例である。したがってローマ人の動作の半分は彼ら本来のものではなく，学んだものである。他から学んだ動作は，つねに二重性をもっており，その真の意味は直線的には現われず斜線的に現われる。習得した動作を行なう――たとえば外国語を話す――者は，その背後で彼本来の動作を行なっている。たとえば，外国語を自国の言葉に訳しているのである。このことから，カムフラージュを理解するためには，やはり斜線的な眼差し，つまり，字引きを横に置いて原典を訳している人の眼差しが必要なのである。私は，スタ丁リンのマルクシズムがロシア史ふうに翻訳された本の出現を期待している。なぜならば，スターリンのマルクス主義の強味は，そこにあるロシア的なものであって，コミュニスト的なものではないからである。今後どうなるかは誰にも分からない。ただ確かなことは，ロシアが支配権の獲得を望むにはまだ数世紀が必要だということだけである。ロシアはいまだに独自の碇をもっていないからこそ，マルクスのヨーロッパ的原理を支持するふうを装う必要があったのである。そして，若さがあり余っているからこそ，こうしたフィクションで満足することができたのである。若者というものは，生きるために理由を必要としない。彼らが必要とするのは口実だけである。
ニューヨークの場合もこれと非常によく似ている。アメリカが現在もっている力を，アメリカが奉じている徒に帰するのはこれまた誤りである。それは結局のところ次の一事，つまり技術に帰するのである。なんという偶然の一致であろうか。これまたアメリカが発明したものではなくヨーロッパが発明したものである。技術は十ハ，九世紀のヨーロッパによって発明された。これまたなんという偶然であろうか。それはちょうどアメリカが生まれた時代であった。それにもかかわらず，人々は真顔で，アメリカの本質は，その実際的で技術的な人生観にあるといっているのである。本来ならば，アメリカは他のあらゆる植民地同様，古い民族，特にヨーロッパ民族の継続民族もしくは若返りであるというべきところなのである。ロシアとは違った理由からだが，アメリカ合衆国もまた我々が「若い民族」と呼んだ特殊な歴史的現実なのである。世人は，「若い民族」というのは一つの表現にすぎないと考えているが，人間の青春と同じようにきわめて現実的な事実なのである。アメリカは若さのゆえに強力なのであり，その若さのゆえに時代の淀である「技術」を奉じたわけである。もしも時代の碇が仏教であったとしたら，同じように仏教を奉じたことであろう。しかし，アメリカの歴史は今始まったばかりである。アメリカの苦悩，難問，葛藤が始まるのはこれからである。そればかりではなく，さらに多くの問題が起こるに違いない。そしてその中には，技術と実用主義とはおよそ正反対の問題もいくつかあるだろう。アメリカはロシアよりも若い。私はかねがね，誇張に陥ることを恐れながらも，アメリカは，最新の技術的発明によってカムフラージュした原始民族であると主張してきたが，最近ワールド・フランクもその著作『アメリカの再発見』において，率直にその事実を認めている。アメリカはまだ苦しんだ経験がないのだ。したがって，アメリカが支配者としての能力をもちうると考えることは夢に等しいのである。
命ずる者がいない，したがって歴史的世界はふたたび混乱に陥るであろうという悲観論にとらわれることを避けたい人は，ふたたび出発点に立ち戻って，次のようにまじめに自問してみる必要がある。すなわち，世人がいっているように，ヨーロッパは没落しつつあり，支配権を放棄し，退位しようとしているというのは確かなのであろうか。この外見上の没落は，ヨーロッパを文字どおりヨーロッパたらしめうる幸いな危機なのではなかろうか。ヨーロッパ諸国民の歴然たる凋落は，もしいつの日か，ヨーロッパ合衆国が可能となり，ヨーロッパの複数性が正式な統一に代わる日がくるとすれば，当然必要不可欠なものではなかったのであろうか。