*五
さて，この辺で，我々はこの章の出発点，つまり，近年人々がヨーロッパの没落をかくもやかましく口にしているという不思議な事実に立ち戻らねばならない。ところで，この没落を最初に指摘したのがヨーロッパ以外の人々ではなく，ヨーロッパ人目身であったという点は驚異である。旧大陸の外ではまだ誰もそうしたことを考えてもいなかった時に，ドイツ，イギリス，フランスの数名の人々が，「ひょっとしたら我々は衰退し始めているのではなかろうか」という，なかなか暗示にとんだ考えをもった。この着想はジャーナリズムに大きくとりあげられ，今日ではすべての人々がヨーロッパの没落を確実な事実として口にしているのである。
しかし読者諸兄，ヨーロッパの没落を気がるに宣言する人を呼び止め，いったい彼の診断はいかなる具体的かつ明瞭な現象を根拠としているのか問い質してみていただきたい。そうすれば，波はたちまち腰昧なゼスチャーをして，あのすべての難破者特有の動作で両手を大空に向けて差し上げるであろう。事実，波は，何にすがりついていいのか分からないのである。今日のヨーロッパの没落を大まかに定義しようとして見出しうるたった一つの現象は，ヨーロッパ諸国民のそれぞれが直面しているもろもろの経済的な問題の総体だけである。しかしそれら経済的な問題の性格をもう少し精確に把握しようとすれば，そのいずれも，富の創造力に重大な影響を与えるものでもなければ，旧大陸はこの分野で今日よりもはるかに重大な危機を経験してきたことに気づくであろう。
それでは，今日のドイツ人やイギリス人が，今までよりもさらに多くさらに良いものを生産する力がないとでも自覚しているのであろうか。絶対にそのようなことはないのである。したがって，経済分野におけるドイツ人やイギリス人の精神状態を明らかにすることがきわめて大切なのだ。というのは，奇妙なことに，彼らに見られる否定しえない気力の低下は，彼らが能力のないことを自覚したことによるのではなく，まったくその逆に，かつてなかったほどの能力を感じながらも，十分になしうろことの実現を阻んでいる致命的な障壁に突き当たってしまっていることに由来するからである。今日のドイツ，イギリス，フランスの経済にとっての致命的な障壁とは，それぞれの国家の政治的国境のことである。つまり，本当の難関は，ある特定の経済問題にあるのではなく，経済能力がその中で活動しなければならない社会的な生の形式がそれら能力の大きさにそぐわないものであるというところにあるのである。私の考えでは，近年ヨーロッパの生命力を確かに抑圧している減退感と無力感は，今日のヨーロッパの潜在能力の大きさと，それがその中で作動しなければならない政治機構の大きさとのアンバランスから生まれるものである。重大な緊急事態を解決しようとする衝動はかってないほど強烈だが，しかし，その衝動も，すぐにそれを閉じこめている小さな櫨，つまり，今日までヨーロッパという生きた組織体を構成してきた小さな諸国民という枠に突き当たってしまう。今日の旧大陸の人間の魂に重くのしかかっている悲観論と無気力は，はばたけばすぐに鉄格子にぶつかって傷ついてしまうあの大きな翼をもった鳥のそれに似ているのである。
その証拠には，この不釣り合いな組み合わせが，経済の場合とは一見きわめて異なったファクターを持つ他のすべての分野でも認められることである。たとえば知的分野においてしかりである。ドイツ，イギリスあるいはフランスの優れた知性人はすべて自国の限界内で息苦しく感じ，自分の国籍を一つの絶対的な限界のように感じている。ドイツの大学教授はドイツの教授団という彼に最も近い読者が要求する執筆様式がばかげたものであるということをはっきりと自覚しており，フランスの著述家やイギリスの随筆家が享受している比較的高度な表現の自由を羨んでいる。そしてバリの文筆家はその逆に，フランス人として生まれた宿命としての文学的役人意識や言語的形式主義の伝統はすでに枯渇してしまっていることを理解し始めており，どちらかといえば，そうした伝統の最高の美点を保存しながらも，その伝統にドイツの教授たちのもつ美徳のいくつかを加えたいと願っていることであろう。
国内政治の分野においても同様のことが起こっている。すべての大国民の政治がどうしてかくも苦渋に満ちているのかという不可思議きわまりない問題は，いまだに深くは研究されていない。世人は民主主義的制度が威信を失墜したのだという。しかし，この威信失墜こそまさに説明を要する点なのである。というのは，それが奇妙な威信失墜だからである。今日どこへ行っても，議会を非難しないところはない。しかし，いずれの場合にも，その非難の中に議会を別の制度に代えようという目論見が見られないばかりか，少なくとも観念的にでも好ましいと思われるような別の理想的な国家形態の輪郭さえも見当たらないのである。つまり，この外見上の権威失墜はそれほど本物ではないのだ。ヨーロッパで不調に陥っているのは，社会的な生の道具としての制度そのものではなく，その制度を活動させる課題なのである。今日のヨーロッパ人一人一人の内部で生がもつにいたった実際的な広がりに見合うような大きさの計画が欠如しているのである。
ここには視覚的な錯覚があるので，我々はそれをここではっきりと訂正する必要がある。たとえば議会などについて，四六時中愚劣な話をきくのはもうたくさんである。従来の議会のあり方に対して，確かに多くの有効な反対意見も述べられている。しかし，その一つ一つを吟味してみると，どの意見も議会を廃止すべきであるという結論ではなく，逆に，議会を改造する必要性があるという直裁明瞭な結論に達しているのである。ところで，あることについて意見を述べる場合，人間的な立場から見れば，それは改良を要するといういい方が最良の表現である。なぜならば，改良を要するということは，それが必要不可欠なものであるとともに新しい生命をもちうるものだ，ということを意味しているからである。今日の自動車は一九一ｏ年の自動車に対する非難から生まれたものである。しかし，世俗一般の議会軽視は，そうした種類の非難から生まれたものではない。たとえば，議会は有効ではないというふうにいわれている。そこで我々は，何のために有効ではないのかと反問してみるべきである。なぜならば，有効性とは，一つの道具がある目的を達成するためにもっている力だからである。そして議会の場合の目的とは，それぞれの国における社会的な問題の解決ということであろう。したがって我々は，議会の無効を広言する人に対して，まず彼自身が今日の社会的な問題の解決とはいったい何かについての明確な考えをもつことを要求するのである。というのは，もしそうでなければ，いったい何をなすべきかが，今日どこの国においても，理論的にさえもはっきりしていない時に，道具である制度の無効性を非難しても意味をなさないからである。それよりも，十九世紀の議会国家以上に優れた効果的な国家を作りあげた制度は歴史上に存在していないことを思い起こす方が有益だろう。この事実はあまりにも明瞭であり，それを忘れるということは自分の愚鈍さを示すことに他ならない。したがって，議会を「よりいっそう」効果的にするための根本的な改革の可能性とそれが急務であるということと，無用論を混同してはならないのである。
今日の議会の権威失墜は，議会の有する明白な欠点とはなんの関係もない。それは，政治的道具としての議会とはまったく無関係な別の世界の理由からきているのである。つまり，ヨーロッパ人が，その道具を何に使うかを知らないこと，伝統的な社会的な生の諸目的を尊重しなくなっていること，一言でいえば，ヨーロッパ人が自分が登録され閉じこめられている国民国家に希望を抱かなくなっていることに由来しているのである。かくも有名な議会軽視を少し注意深く分析してみれば，大部分の国において，市民がもはや自分の国家に尊敬の念をもっていないことが分かるだろう。したがって国家の制度の枝葉末節を別のものに置き代えても意味をなさないだろう。なぜならば，尊重されていないのは制度ではなく国家そのものであり，国家はあまりにも小さくなってしまったからである。
ヨーロッパ人は，経済，政治，知性の各面の計画において初めて自国という限界に突き当たってみて，そうした計画――つまり，自己の生の可能性，生の様式――が，自分が閉じこめられている集団の大きさとは比較にならないほど大きなものであることに気づいたのである。そして，その時，イギリス人，フランス人，ドイツ人であることは，地方人であるということであることを発見した。つまり，彼らは自分が以前よりも「小さくなった」ことに気づいたのである。というのは，以前は，イギリス人もフランス人もドイツ人もそれぞれが自分が世界であると信じていたからである。私はこの事実こそが，ヨーロッパ人を苦しめている没落感の真の原因であると考えている。したがってそれは，純粋に主観的な原因であるとともに，自分が衰退したという推測は，まさに波の能力が増大し，すでにもう自分が入りきれないような旧式の組織に突き当たってしまったところから生まれてくるのだから，矛盾した原因でもあるのである。
以上述べたことをより明確にするために，たとえば自動車製造のような具体例をとりあげていただきたい。自動車は完全にヨーロッパ的な発明品である。それにもかかわらず，今日ではアメリカの製造数の方がヨーロッパのそれをしのいでいる。その結果，ヨーロッパの自動車産業は衰退しつつあるということになる。しかしながら，ヨーロッパの自動車関係者――産業人，技術者――は，アメリカの自動車の優秀さは，アメリカ人が特殊な才能をもっているためではなくて，アメリカの自動車産業が，なんの障害もなく，自分の製品を一億二千万の人間に提供しうるという単純な事実によるものであることを十分に知っている。ヨーロッパの一自動車製造会社が，全ヨーロッパ諸国とその植民地と保護領からなる市場を目前にした場合を想像していただきたい。五億から六億の人間を想定して造られるその自動車が，フォードよりもはるかによくて安いことを疑う人はいないであろう。アメリカの技術が特に優れている点のすべては，ほとんどまちがいなく，市場が広大で等質的であるということの結果なのであって，その原因ではないといえよう。産業の「合理化」は，実はその規模の大きさの必然的な結果なのである。
ヨーロッパの真の現状は，したがって次のようにいうことができよう。すなわち，ヨーロッバの壮大にして長期にわたる過去は，ヨーロッパをしてすべてが成長した新しい生の段階に到達せしめた。しかし，一方では，その過去から生き永らえている機構は鞍小であって，今日の発展を阻害しているのである。ヨーロッパは小さな諸国民の集合体として形成されてきた。ある意味では国民という概念と感情は最もヨーロッパ的な発明であるといえる。ところが，今やヨーロッパは自己を超克することを余儀なくされているのである。これが，これからの時代に演じられる巨大なドラマの荒筋である。ヨーロッパははたして過去の残蓬から逃れることができるであろうか。それとも永遠にその虜となってしまうのであろうか。かつて歴史上には，旧来の国家観念を揚棄しえなかったがために偉大な一文明が死滅したことがすでに一度起こっているのである。