*六
私は別の機会にギリシャ・ローマ世界の受難と死について語ったことがある。いくつかの詳細な点はそこで述べたことにゆずるとして，ここでは別の観点からその問題をとりあげてみることとしよう。
ギリシャ人とラテン人が，歴史上に現われた時は，ちょうど巣箱の中の蜜蜂のように，多くのウルプス（ローマの都市）とポリスヂリシャの都市）に分かれ住んでいた。この事実こそ，ここでは，神秘的な起源をもつ根源的な事実としてとりあげなければならないのであり，我々はそれ以上遡ることをせずこの事実から出発しなければならないのである。それは，あたかも，動物学者が黄蜂は孤独で放浪し渡り歩くが金色蜂は必ず群をなして巣を作るという，唐突なしかも説明されていない事実から出発するのに似ている。確かに，発掘や考古学的研究によって我々は，アテネやローマが存在する以前のアテネやローマの土地にあったものをいくらかは知ることができる。しかし，それにしても，その完全に農耕的でなんら特殊な性格をもっていない歴史時代以前から，両半島の大地がもたらした新種の実である都市の萌芽への移行過程は神秘のヴェールに包まれたままである。そればかりではなく，両半島の前史民族と，人間的な生のレパートリーに一つの偉大な革新をもたらしたこれら不思議な共同体との間の人種的関連さえも明らかになっていないのである。この共同体の革新性は，公共広場を建設し，その周囲に原野に向かって閉ざされた都市を建設したことである。確かに，ウルプスやポリスの最も的確な定義は，例の大砲に関する「穴を見つけてその周りにしっかりと針金を巻きつけなさい，そうすれば大砲ができ上ります」という滑稽な定義にきわめてよく似ている。ウルプスやポリスもそれとまったく同じように，空地，つまり
forum から発足したのであり，それ以外の部分はすべて，この空地を確保し，その内輪郭線を明示するための手段にすぎないからである。ポリスの起源は，住居の集合体ではなく，市民の集会所であり，社会的な役割のために区画された空間であった。ウルプスは，牧舎や家のように外気から身を護り生殖するといった個人的・家庭的な必要性を満たすために造られたのではなく，社会的な事柄を論ずるために造られたのである。これは，アインシュタインの空間よりもはるかに新しい種類の空間の発明である点に注目していただきたい。それまでは，たった一つの空間，つまり，原野が存在したにすぎなかった。そして，人間はその空間の中で，それが人間存在にもたらすいっさいの成果をもって生きていたのである。農耕人はまだ植物的な存在であった。彼の存在，彼が考え，感じ，望んだことには，植物に特有なあの無自覚な鈍重さが残っている。この意味からいえば，アジアやアフリカの偉大な文明は，偉大な額人植物であったといえよう。ところが，ギリシャ・ローマ人は原野から，「自然」から，地殻的・植物的世界から分離する決心をしたのである。どうしてそれが可能だったのだろうか。人間がいかにして原野を立ち退くことができるのであろうか。地球すべてが原野であり，原野は無限であれば，人間はどこへ行くのだろうか。答えは簡単である。原野の一部を壁でとり囲み，無定形な無限の空間に対して封鎖された有限の空間を作ればいいのである。かくして広場が生まれる。それは家のように，原野に散在する洞窟に似て上部を閉ざした「内部空間」ではなく，まさに原野の否定そのものに他ならないのである。広場は，それをとり囲む壁のおかげで，残りの原野に背を向け，それを無視し，それと対立する原野の一断片となることができる。無限の原野からの分離を敢行し，自己防衛を行なうこの反逆的な小原野は，止揚された原野であり，したがって，まったく新しい特殊な空間であり，その中で人間は植物と動物とのいっさいの関連から自分を解き放ち，動植物を外に押し出し，純粋に人間的な別個の領域を創造した。それは市民的空間である。だからこそ，ポリスからにじみ出る数液を吸いつくした偉大な都会人ソクラテスは「私は原野の樹木とはなんの関係もない。私に関係があるのは都市の人間のみである」というにいたるのである。インド人もペルシャ人も，中国人もエジプト人もかつてこの事実を知ったことはないであろう。
アレクサンダー大帝とシーザーまでのギリシャとローマの歴史は，右に述べた二つの空間，つまり合理的な都市と植物的な原野，法律家と農夫，法と農の絶えざる戦いであったのである。
以上述べた都市の起源は，私が勝手に想像したものであってシンボリックな真理をもつにすぎない，などと考えないでいただきたい。古代ギリシャ・ラテン都市の住民は，彼らの記憶の最も深い根源的な層に，まれに見る根強さで，シノイキスモスへの追憶をとどめているからである。我々は原典を探し求める必要はない。ただ，この言葉を翻訳すれば十分である。シノイキスモスとは，ともに住むという合意，つまり，物理的および法的な二重の意味での集 会（市議会，市庁舎の意味もある）なのである。原野における植物的分散状態の後に，都市への市民的集中が起こった。都市は超・住居，つまり，家あるいは人間以下の動物の巣の超克であり，家族的な家よりもより抽象的でより高度な集合体である。それは男女によって構成されているのではなく，市民によって構成されているレププリカ（古代ローマの都市国家）であり，ポリティア（古代ギリシャの都市国家）であった。ここに，より動物に近い原始状態にもはや還元しえない新へい次元が人間存在の前に開かれたのであり，その新天地においてかつてはただの人間にすぎなかった者たちがその最善をつくすことになる。このようにして，都市はやがて国家となるのである。
ある意味では，地中海沿岸地域はすべて，こうした都市国家形態への自発的傾向をつねに示してきた。純度に差はあるが，北アフリカも同じ現象を繰り返した（カルタゴは都市の意味である）。イタリアは十九世紀まで都市国家形態を脱しきれなかったし，スペインの地中海沿岸地方も機会あるごとに分離主義を掲げるが，これもあの数千年にわたる傾向が残した悪癖なのである。
都市国家はその構成要素が比較的わずかなので，国家の原理の特性を明確に示してくれる。まず「国家」語源はラテン語の
status で「状態」の意）という言葉は歴史的なもろもろの力の組み合わせが一つの均衡状態，安定状態に達したことを意味している。この意味では，国家は歴史的な運動の反対概念である。つまり国家は，安定した，組織化された静止的な共存なのである。しかし，この不動性と静止的決定的な形態という性格は，すべての平衡状態がそうであるように，国家を生み出しそれを支えているダイナミズムを内に秘めている。要するに，そうした性格が，すでに形成されている国家は，それを目指した以前の戦いと努力の結果であることを忘れさせるのである。既成の国家の前には生成中の国家があったのであり，この生成中の国家こそ運動の原理なのである。
私がいいたいことは，国家というものは，人間に対して贈り物のように与えられる一つの社会形態ではなく，人間が額に汗して造り上げてゆかなければならないものなのだということである。国家は，流民の群れとか部族とか，その他自然が人間の協力を必要とせずに作りあげてゆく血縁関係にもとづく社会とは違う。なぜならば国家は，それとは逆に人間が血縁的に属している生まれながらの社会から脱却しようと努力する時に生成し始めるものだからである。血の代わりにその他の自然的原理，たとえば言語をとってもよい。本源的に国家は，多種の血と多種の言語の結合にある。つまり，国家はあらゆる自然的な社会の超克であり，混血的で多言語的なものなのである。
このように都市は諸種族の統一から生まれる。都市は動物的多様性の上に法的な抽象的均一性を打ち立てる。ところで，この法的統一への願望が国家形成の動きを推進したのでないことはもちろんである。国家形成への衝動はいかなる法律よりもいっそう実体的なものであり，血縁的微小社会がなしうる生命活動よりもいっそう大きな事業への意志である。我々はあらゆる国家の生成過程の中につねに一人の偉大な事業家のプロフィルを見る，といって悪ければほのかに垣間見ることができるのである。
ある国家が誕生する直前の歴史的状況を観察してみれば，つねに我々はそこに次のような図式を発見するであろう。すなわち，いくつかの小さな共同体が存在し，その社会構造はそれぞれの共同体が自分の内部に向かって生きるようにできているということだ。各共同体の社会構造は，共同体的共存にのみ役立つわけである。この事実は，それ以前に各共同体は，隣接集団との接触をわずかな例外とすれば，事実上孤立状態にあって，自給自足的生活を行なっていたことを物語っている。ところがこうした孤立状態の次に事実上の共同体外的共存，特に経済的な意味での共同体外的共存の時代が訪れる。各共同体の成員は，もはや自分が属する共同体のみに依存して生きるのではなく，彼の生の一部は，物的・知的交流をもつ他の共同体の成員と関係づけられてくる。つまり，共同体内的並びに
共同体外的という二つの共存形式の間に不均衡が生じるのである。既存の社会形式――法律，「慣習」，宗教――は内的共存には有利に作用するが，より広範でしかも新しい外的共存には，これを阻害する方向に作用することとなる。こうした状況下において国家の原理は，内的共存の社会形式を廃止し，新しい外的共存に適した社会形式にとって代えようとする運動となって現われるのである。以上の論法をヨーロッパの現状に適用してみていただきたい。そうすれば今までの抽象的な表現が形と色を帯びてくるであろう。
国家というものは，ある種の民族の知性が，伝統的な共存形態を捨て去る能力をもつばかりでなく，さらにその上に，いまだかつて存在しなかった形式を想像するだけの力がなければ，創造されえないものなのである。したがってそれは真の創造である。国家はまず，完全に想像力の産物として生まれるものである。想像力こそ，人間が所有している人間解放のための能力である。一つの民族の国家形成能力は，その民族の想像力の度合いに比例する。したがって，すべての民族はその国家的発展にそれぞれの限界をもってきたのであり，その限界とはまさに自然がその民族の想像力に課した限界なのである。
ギリシャ人とローマ人は，原野における人間の分散状態に対する勝利である都市を想像する能力をもっていたわけだが，彼らは都市を城壁で囲む段階を出なかった。ギリシャ・ローマ的発想をさらに進め，彼らを都市から解放しようと試みた人間もいるにはいたが成功しなかった。ブルータスに代表されるローマ人の想像力の貧困は，古代における最大の想像力の所有者であったシ’ザーを裏切った。我々ヨーロッパ人にとってこの古代史を思い起こすことがきわめて肝要である。なぜならば，今日のヨーロッパ史もこれとまったく同じ一章にさしかかっているからである。