大衆の反逆

*八

　「過去に共同の勝利をもち，現在に共通の意味をもつこと。今までに共同で偉大なことをなし遂げ，今後もさらに偉大なことをなさんと欲すること。以上が一民族たるための基本的条件である。過去に関しては栄光と悔恨の遺産であり，未来に関しては実現すべき共通の計画である……一国家の存在は日々の人民投票である」。

　以上が有名なルナンの定義である。この定義が異常な成功を収めたのはなぜだろうか。それが最後の一句の魅力によるものであることは明らかである。国民国家が人民による日々の票決によって成り立つのだという考え方は，われわれに一種の解放感を与える。共通の血，言語および過去は静的で，宿命的で，硬化した無気力な原理であり，牢獄である。もし国民国家がそれらのみに存するとすれば，国民国家とはわれわれの背後にあるものであって，われわれとしてはなすべきことは何もないだろう。つまり，国民国家とはかくあるものであって，かく形成するものではなくなってしまうだろう。さらに国民国家が誰かに攻撃されたとしても，それを守ることすら無意味になってしまうであろう。

　人間の生は，望むと望まざるとにかかわらず，つねに未来の何かに従事しているのである。われわれは今の瞬間にありながらそこから来るべき瞬間に気を配るのである。だからこそ，生きるということは，つねに休むことも憩うこともない行為である。なぜ人々は，あらゆる行為は，一つの未来の実現であることに気づかなかったのだろうか。われわれがＺの瞬間に追憶するのは次の瞬間に何かを達成せんがためである。その何かが単に過去をふたたび生きる喜びであってもかまわない。この淋しくつつましやかな喜びも一瞬前には望ましい未来に思えたのであり，それだからこそわれわれはそうするのである。つまり，人間にとっては，未来と関連していないものはすべて無意味だといえるのである。

　もし国家が過去と現在とからのみ成り立っているのであるなら，それが攻撃を受けても誰も防衛しようとはしないだろう。このことに反対する人は偽善者かさもなければ愚者である。国家の過去は，未来に夢――それが正夢であろうと逆夢であろうと――を投影するのである。われわれには，われわれの国家がその中で存続するような未来が望ましく思えるのだ。だからこそ，われわれは祖国の防衛に立ち上がるのであって，血を守るためでも，言語を守るためでも，共通の過去を守るためでもない。国家を守ることによってわれわれが守衛するのは，われわれの明日であってわれわれの昨日ではないのである。

　ルナンの定義のなかに輝きわたっているのはこれ，つまり，明日のためのすばらしい計画としての国家である。人民投票が一　つの未来を決定するのである。彼の場合には，未来が過去の継続だとしても，なんら問題にはならない。ただ単に，ルナンの定義もまた古めかしいものであるということを示すにすぎないのである。

　したがって国民国家は，古代のポリスや血によって限定されているアラブの「部族」よりも，国家という純粋な観念にいっそう近い国家的原理を代表するものといえよう。国民国家の観念も，過去，領土，種族への少なからぬ執着を内蔵していることは事実であるが，しかし，それゆえにこそ，国民国家において，一つの生の計画を中心とした人間集団の統一という純粋原理がつねに勝利を収めてきたことはまさに驚くべき事実なのである。いやそればかりではない。私は，国民国家がそのような過去の重荷をもっていることやある程度まで物質的原理の限定を受けているという事実は，ヨーロッパ人の魂から自然に出てきたものでもないし，出てくるものでもなく，それはロマン主義が国家概念に与えた該博な解釈に由来するものであるといいたいのである。もし中世にこうした十九世紀的な国家概念が存在していたとすれば，イギリスもフランスもスペインもドイツも生まれ出ることはなかったであろう。なぜならば，ロマン主義的な解釈は，国民国家を推進形成する力と国民国家を単に強化維持する力とを混同しているからである。はっきりいってしまえば，国民国家を形成したのは愛国心ではないのである。国民国家を形成したのが愛国心だと信じることは，すでに私が指摘した愚鈍さ以外のなにものでもなく，実はルナンさえもあの有名な定義においてその愚かさを犯している。ある国民国家が存在しうるためにはある人間集団が共通の過去をもっていなければならないというならば，今日から見た場合に過去であるものをかつて現在として生きていた時の同じ人間集団を，何と呼んだらいいのかという疑問を私は発せざるをえない。どうも，その人間集団が，われわれは一国民国家であるといいうるためには，右に指摘した共通の生が死滅し過去のものとなることが不可欠の条件であるということのようである。こうした考え方には，あの文献学者や古文書保管係の職業的欠陥，つまり過去となっていない現実はいっさい見ることができないという彼らの視覚が認められないだろうか。文献学者は，文献学者たるためには，何よりもまず過去が存在していなければならない人間である。しかし国民国家は，成員に共通した一つの過去をもつ前に，その共通性を創造しなければならない，さらに共通性を創造する前に，それを夢み，欲し，計画せねばならないのである。国民国家が存在するためには，国民国家が自己の計画をもつことで十分である。たびたび例を見るように，その計画が達成されなくても，またその遂行が失敗に終わってもそれは問題ではない。失敗に終わったような場合は，われわれはそれを夫折した国家（たとえばブルゴーニュ）と呼ぶわけである。

　スペインは中南米の諸民族と共通の過去，共通の種族，共通の言語をもっているが，それにもかかわらずそれらの諸民族とともに一つの国民国家を形成してはいない。なぜだろうか。それは，たった一つのこと，しかも基本的なものと思われることが欠けているからである。つまり共通の未来である。スペインは動物学的には類縁関係にあるそれら諸民族を惹きつけるだけの集団的な未来の計画をあみ出すことができなかったのである。未来を決すべき人民投票はスペインには不利に作用した。そこでは，古文書も，追憶も，祖先も，「祖国」も何の役にも立たなかったのである。これら諸要素は，全体を包括する未来への計画がある場合には，団結を強化する力として役立つが，ただそれだけのことである。

　だから私は，国民国家の中に，人民投票的性格をもった歴史的構造を見るのである。国民国家がこの歴史的構造以外にいかなる外見をとったとしても，それはすべて一時的な価値しかもたず，変化するものであり，人民投票がその時々に要求する内容，あるいは形成，あるいは整理統合を意味するにすぎないのである。ルナンは，目くるめくばかりの輝きを発する魔法の言葉を見出した。われわれはこの言葉の発する光によって，国民国家の深奥にひそむ本質をぼんやりとではあるが照らし出すことができる。それは次の二つの要素からなっている。第一は共通の事業による総体的な生の計画であり，第二はかかる督励的な計画に対する人々の支持である。この全員による支持こそ，国民国家をそれ以前のすべての国家から区別するあの内的強固さを生み出すものなのである。以前の国家における統一は，分散した諸集団に対する国家の外からの圧力によって達成され維持されていた，国民国家の力は「家臣たち」の心底からの自発的な団結から生まれるのである。事実上は家臣たちがすでに国家なのであり，彼らはもはや国家を彼らにとって異質的なものとは感じえないのである――このことこそ国民的感情における驚異的な新事実なのである。

　しかしルナンは，人民投票を，すでに完成された国民国家に関連づけその永続を決定するものというふうに回顧的な意味内容を与えることにより，せっかくの賢察をほとんど無に帰してしまっている。私はこの人民投票に逆の記号を与え，生成途上にある国民国家に対する発言力をもたせたいのである。これこそ決定的な視点である。なぜならば，国民国家はけっして完結することはないからである。この点で国民国家は他の国家と異なっている。国民国家はつねに形成の途上にあるか，あるいは崩壊の途上にあるかのいずれかであり，第三の可能性は与えられていないからである。その国家がその時々において生き生きとした企てを象徴するか否かによって，支持を獲得してゆくかあるいは支持を失っていくかのいずれかなのである。

　したがって，西欧の諸人間集団を断続的に鼓舞してきた一連の統一的事業をここに想起してみることは最も有益な方法であろう。そうすれば，ヨーロッパ人が社会的な面のみならず最も個人的な面にいたるまでいかにそれらの事業によって生きてきたか，また一つの事業を目前にしえたか否かによって，いかに「訓練」され，あるいはいかに額廃したかを知ることができるからである。

　この研究はさらにもう一つのことを明らかにするであろう。すなわち古代人の国家的事業はそれ自体，対象としている諸人間集団の全般的な支持を前提としていなかったということと，いわゆる国家はそれ自体つねに宿命的な限界――種族あるいは都市――に結びつけられていたがゆえに，事実上は無限界であったということである。ある民族――ベルシャ，マケドニアあるいはローマ――は，地球上の任意の一部分を自己の支配下に入れて統一することができた。古代の統一は真の統一でも，内的・決定的な統一でもなかったから，もっぱら征服者の軍事的・行政的な効果のいかんにかかっていたのである。しかし西欧の場合には，国民国家的統一は一連の段階を経過せざるをえなかった。ヨーロッパには，ペルシャ帝国，アレクサンダー大王やアウグストゥス皇帝の帝国のような大規模な帝国がまったく存在しえなかったという事実に，われわれはもっと奇異の感を抱くべきなのである。

　ヨーロッパの諸国民国家の形成はつねに次のようなリズムに従って行なわれてきた。その第一の段階では，国家とは諸民族を一つの政治的・精神的共同体に融合するととだとする西欧人独特の本能が，地理的，人種的，言語的に最も近い集団の上に作用し始める。それは，こうした近隣関係が国民を鋳造するからではなく，隣接者間の差異はより容易に克服しうるという理由からである。その第二の段階は，内部強化の時代であり，新国家の枠外にいる他民族を異質のもの，あるいは大なり小なり敵とみなす段階である。つまり，国民的発展段階が排他的な様相を示し，国家内に閉じこもる傾向を示す時期である。要するに今日われわれがナショナリズムと呼んでいるものがこれである。しかし，政治的には他民族を異邦人，競争相手というふうに感じながらも，現実には経済的，知的，精神的に彼らと共存している。国家主義的戦争は技術的・精神的な格差を均等化する役割をもっている。従来の敵同士はしだいに歴史的に等質化してゆく。そして，敵であるそれらの民族も，われわれの国家と同じ人間サークルに属しているのだという意識が徐々に頭をもたげてくる。それでも彼らを異邦人で敵対者だとみなすことには変わりない。さて第三の段階は，国家は完全な国内統合を達成する。そこで新しい事業，つまり，昨日まで敵であった民族と融合するという事業が現われる。昨日までの敵は，精神的にも利害関係の面でもわれわれの近親者であり，彼らよりもさらに遠く離れたより疎遠な他のグループに対して共同して一つの国民的サークルを形成しているのだという確信が増大してくる。ここにいたって，新しい国民的理念が成熟するのである。

　一つの具体例をもって私のいわんとするところを明らかにしてみよう。エル・シッドの時代にスペイン――スパニアはすでに一つの国民的理念となっていたとするのが通説であり，この主張を強固なものとするために，その数世紀前にすでに聖イシドロ（スペイン南部セビーリャの大司教で，教会の教父。古代文化の中世への主要な伝達者の一人。560〜636年）が「母なるスペイン」といっているということが付け加えられるのが普通である。しかし私の考えでは，これは歴史的バースベクティヴのとんでもない誤りである。エル・シッドの時代にはしオン−カスティーリャ国家の画策が始まっていたのであり，このレオンとカスティーリャの統一が当時の国民的理念であり，政治的に実効のある理念だったのである。これに対してスパニアは，主として学問上の観念にすぎなかったのである。とにかく，いずれにしてもスバニアは，ローマ帝国が西欧に蒔いた実り豊かな観念の一つであった。「スペイン人」はローマによって一つの行政的統一体，つまりローマ帝国の一瞥区として統轄されることに慣れていた。しかしこの地理的・行政的概念はスペイン人にとってはまったく受動的なもので，彼らの内面から生まれたものでもなければ，ましてや彼らの瞳慢などでは絶対になかったのである。

　スペインの十一世紀に存在したこの観念にいかに多くの実体を与えようとしても，結局は，ギリシャという概念が（紀元前）四世紀のギリシャ人に対してもっていたあの力強さと明確さにさえ及ばないことを認めざるをえないであろう。しかも，このギリシャの概念もけっして真の国民的理念ではなかったのである。歴史上の実際的な対応例を示すとすれば，むしろ次のようにいうべきであろう。すなわち（紀元前）四世紀のギリシャ人にとってのギリシャと十一世紀のさらには十四世紀にいたるまでの「スペイン人」にとってのスパニアは，十九世紀の「ヨーロッパ人」にとってのヨーロッパが意味するものと同一である。

　このことは，国民的統一の事業の一つ一つは，メロディーを構成する一つ一つの音のように順々に実現されてゆくものであることを如実に示している。昨日は単なる近似性をもっているにすぎなかった者どうしが，国民的感情を高揚するにいたるためには，明日まで待たなければならない。しかしその明日という日が訪れることはほとんど確実だといえるのである。

　今日，「ヨーロッパ人」にとってヨーロッパが一つの国民国家的概念たりうる時期が到来している。しかも今日そう確信することは，十一世紀にスペインやフランスの統一を予言するよりもはるかに現実的なのである。西欧の国民国家は，自己の真の本質に忠実であればあるほど，ますますまっしぐらに巨大なる大陸国家に発展してゆくことであろう。